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史料を読む―青島医学校 先日来青されたT大大学院の山田さんより、 早速メールをいただきました。 「先日、【青島医学校】が話題に出ましたが、史料を見たら出てきました。 『膠澳商埠教育彙報』(膠澳商埠督辨公署民政科学務股、1924年)の 「膠澳商埠日本学校学生年級人数及経費表」という表に、 以下のようにありました。 校名 青島医学校 開校時期 民国十三年九月 校址 青島病院 学級人数 二〇 おそらくこれが、 東亜医科学院、青島医学専門学校の前身じゃないかと思います。 もし他の史料にも出てきましたら、連絡差し上げます。」 さすが「青島の教育史」研究の専門家です。 ありがたいことです。 ↑同仁会青島病院。写真はアカシア会提供。 この「青島医学校」について外務省の資料を調べてみますと、 いくつかの案件が載っていました。 例えば、 「青島医学校学生 昭和四年六月六日起案 昭和四年六月十一日決裁」 の中に、 「同仁会青島医院ニ附設セラレ居ル青島医学校ヲ昨年卒業シ 現在青島医院ニ於テ医務助手トシテ勤務中ナル支那医学生陳志藻他四名ニ 指導者トシテ同医院勤務ノ支那人医師趙中天氏ヲ参加セシメ 約1ヶ月ノ予定ヲ以テ日本医学界見学ノ旅行ヲ致サセ度・・・」 というのがあります。 つまり、同仁会青島病院に付属する青島医学校の卒業生を、 内地の病院見学に行かせたいから旅費を支出して欲しい、 というものです。 青島医学校が開校したのが民国13年(大正13年)、 1924年ですから、 修業年限を4年として、 昭和4年(1929年)の前年に卒業した第一期生を、 内地の病院に見学に行かせたのでしょう。 同じような案件が翌昭和5年にもありますが、 その後の卒業生はどうなったかは不明です。 卒業生の氏名が全員中国人ということは、 この青島医学校は中国人医師を養成したものと思われます。 その後、昭和11年(1936年)8月には、次のような案件があります。 「件名 青島医院ノ敷地建物一部 返還方ニ関スル件 貴会ニ無償貸与中ノ青島医院ノ敷地及建物ノ内 万年町通東側ノ元医学校ニ使用シタル区域ノ土地並 同地所在ノ煉瓦造二階建ノ一棟及附属建物等ハ 今般当方ニ於テ使用ノ都合ニ付此際御返還相成様致度・・・」 つまり、元医学校として使っていた、 万年町通り(江蘇路)東側の土地と建物を返還して欲しい、 という、時の外務大臣・有田八郎からの請求書です。 ということは、昭和11年(1936年)8月には、 青島医学校はすでに閉校になっていたということでしょうか。 その後、青島医学校の代わりに出てくるのが、 東亜医科学院の名前です。 「青島日本中学校校史」の年表によると、 1939年(昭和14年)12月12日、東亜医科学院開校。 1941年(昭和16年)10月8日、 東亜医科学院新築校舎落成。 とあります。 ↑貴重な資料「青島日本中学校校史」。 そして東亜医科学院に関する公文書には次のようなものがあります。 「財団法人同仁会ノ設立スル同仁会東亜医科学院ヲ 専門学校令ニ依ラシムルノ必要ヲ認メ別紙勅令案ヲ提出ス 右閣議ヲ請フ 昭和十八年二月八日 大東亜大臣 青木一男 内閣総理大臣 東條英機殿 本件ハ四月二十八日公布相成度 内閣官房総務課御中 朕財団法人同仁会ノ設立スル青島東亜医科学院ニ関スル件ヲ裁可シ 並ニ之ヲ公布セシム 御名 御璽 昭和十八年四月二十七日」 これは、東亜医科学院を内地の専門学校令により扱うというもので、 東亜医科学院は、 昭和18年(1943年)に専門学校として認可されたことになります。 また、昭和19年(1944年)7月に出された勅令案は、 「財団法人同仁会ノ設立スル青島東亜医科学院ノ名称ヲ変更スルノ 必要アルニ依リ別紙勅令案ヲ提出ス 右閣議ヲ請フ 昭和十九年七月七日 大東亜大臣青木一男 内閣総理大臣東條英機殿」 というもので、 同年8月、 東亜医科学院を青島医学専門学校と改称するという 法令が公布されます。 以上、青島医学専門学校とその前身である東亜医科学院、 そしてさらにその前身と思われる青島医学校について、 史料を読んでみました。 今後新しい史料の発見と情報の入手によって 更に補足、訂正していきたいと思います。 ↑青島医学専門学校と寄宿舎があったと思われる場所。 □ □ □ □ 以下は、1944年(昭和19年)に 青島医学専門学校に入学された井上睦三さんのメールです。 「青島医専は45年当時、学生寮は熱河路の坂道を上がった付近にあり、 学校は現在の第六中学校辺りでなかったかなと記憶しています。 1年2年生は医学の基礎勉強して 3年生になると青島病院で実習見習いをしていたと記憶しています。 4年になると内科外科など自分の進む方針を決めて 専ら当時青島病院で就業したと聞いています。 45年私が入学した時、青中から15名程で、 アト20名程は日本各地からの合格者が入学すると聞いていましたが、 爆撃・魚雷などの襲撃で交通難の為遅れているうちに 敗戦で駄目になりました。 私が入学した当時の青島医専の最上級生は3年生でしたので、 多分設立は1942年と思います。」 という貴重な情報をいただきました。 今後ともみなさんの情報と資料の提供を お願いします。
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1939,40年頃の夏はコレラが流行り、その時街の中で予防注射をするのは医学生でした。実習だったのだと思います。
2010/2/16(火) 午前 9:00 [ 相子 ]
青島医専が出来た歴史、いろいろと変革があったのですね。所で鹿児島青島会の元会員の父親が青島医専の卒業生で終戦帰国後、鹿児島の郷里で医師として開業?していましたが、既に父親は死亡されていると聞いた事があります。娘さんはまだ健在と思いますので聞いてみましょう。
2010/2/16(火) 午前 10:13 [ ターチャン ]
相子さん、コレラの流行には市当局も頭を悩ましたでしょう。39年と40年がひどかったのですね。街で予防注射をして広がるのを防いで、我々子供も無事だったわけですね。
2010/2/16(火) 午前 11:12
tadaoさん、ぜひその娘さんに問い合わせをお願いします。どんな資料、写真、思い出話でも結構です。日本で開業された方はほかにもたくさんいらっしゃると思いますね。よろしくお願いします。
2010/2/16(火) 午後 4:17
早稲田を卒業せずに弾除けで両親の希望から青島東亜醫科學院に在学した事を記した父の兄の身上申告書を持っております。大正六年生まれの叔父は昭和十六年に昭和医大を卒業して国立北京大学外科で実習してフィリッピンで戦死しておりますが、父は帰国後鹿大医学部は受験して合格通知も私が持っておりますが、母を貰い私が生まれた後も上京して医学部に入り直す話が物心付くまで耳にしておりました。同級生だったと教えて貰った方は患者さんに診察中に刺されて亡くなられた白石とか言われる市内の方でした。注射は ペニシリンの手に入らない頃に自分で肩に打って私は家庭医の先生にお願いするものでした。青島会の皆さんに仲間に入れて頂けまして楽しいひと時を過ごさせて頂けました事懐かしく思い出します。青島へは一度だけ寒い冬に訪れた事があります。
2012/8/21(火) 午後 7:08 [ 志布志っ子 ]
8月21日になってもこうやって「志布志っ子)さんのような方が登場して次々と足立さんの御意志帆が継続するのは本当にうれしく思います。
わつぉいは今は母親の介護や自分の体のことやらで動けませんが必ず足立さんがにこやかに手を振ってくれた町の青島南京路に行こうと思います。
限りある命、限りある時間です、しっかりと生きたいと思います。
わたし自身のメールが機能しませんから、なにかあればここにでも書き込んで下されば、連絡方法を考えます。
2012/8/27(月) 午後 10:54 [ ぜ ]
なお、わたしとは半世紀近くも年の離れた若い友人が9月からは青島大学で語学の勉強を始めます。
きっと春秋に富んだ人生が展開すると思います、皆さまもよろしくお願いします。
名前は窪田君と、言います。
2012/8/27(月) 午後 10:58 [ ぜ ]
二年間書き込みがされていなかったのでターチャンの書き込みに返事を書き込んだ訳でした。介護で思う様に自分の時間が取れない事でしょうが窪田君の様子が解かると私も又投稿を楽しみにしますので勉強の合間に窪田君に青島の今を知らせて貰って下さいませんか?祖父が上海同文書院に第六期生とし一中を出てから留学しております。父が青島に行ってた頃は北京に祖父母は住まっていたそうです。
2012/9/4(火) 午後 4:56 [ 志布志っ子 ]
戦争という個人ではどうしようもない時代のなかでも、それでも家族やあるいは異国の友人達との暮らしは様々な陰影にあふれていたことでしょう。
年若い友人はまさしくまだ二十代の半ばであり、これから春秋に富んだ人生を歩むことでしょう。
かれはあめりかのあおいめのせいねんとどうしつのりょうくらしですから、きょうみしんしん。
2012/9/21(金) 午前 0:07 [ ぜ ]
先日残留の家族に付いて来ております長男のお嫁さんの母親が亡くなりまして急ぎ中国に帰ったのは良かったのですが、帰りの空港では何処に行く。と、険悪な問い掛けに日本に関わるだけで罵倒する人も居て娘に会いに行くと、それだけ答えて来たと言っておりました。個の26日に福岡で残留援護の勉強会に出席できますが、青島の生活も大変かと思います。暫くはアメリカ人になって暮らして下さいと窪田君にお伝え下さい。[ぜ]さんへ
2012/9/21(金) 午後 1:48 [ 志布志っ子 ]
いつの時代も政治の犠牲になるのは末端、はしいこ、かたすみでくらすしょみんです。
わたしはおろかなせいじやせんそうもこころからにくみますがこれにかたんしもくにんするおおくのたいしゅう
2012/9/21(金) 午後 9:47 [ ぜ ]
[ぜ]さん午前の部と午後九時に二度も書き込みなさいまして介護が一息の時間帯でしょうか?私は三十代で父を四十代で母を看取っておりましたのでこの年に両親に居て貰っても体力もその他も十分には出来なかったろうと常常感じております。苑やホームに残留のご主人も入っていらっしゃるのでたまに訪問させて頂けております。九十二歳ですが、此処は良い所ですと、何時も感謝の言葉を頂けております。今日のニュースではやや沈静化に向かっつた報道がありましたので、穏便な国交を再開して頂きたいものです。介護疲れの出ませんように。毎日をお過ごし下さい。失礼いたします。
2012/9/22(土) 午前 9:16 [ 志布志っ子 ]
お天気が良くて本棚の掃除をしましたら鹿児島青島会の資料が出てきました。青島小唄をグリーンホテル錦生館で皆さんに歌って頂いて聞くだけでしたが、懐かしいので、一番を書き込ませて頂きます。
白い灯台 緑の小松 夢の浮島 加藤島 長い桟橋 回覧閣に とろり絵のような ” ” 月が出る ほんに青島良い処 又再開出来て皆さんに歌って頂きたいものです。
2012/10/10(水) 午後 1:27 [ 志布志っ子 ]
祖父が青島医科学院の一期生で入学は昭和14年(1939)のようです。
卒業証書は昭和18年11月29日と書かれています。
2018/11/29(木) 午後 7:36 [ hir*s*ima*hi*a ]
> hir*s*ima*hi*aさん
どこのどなたか、良く存じ上げ無いのですが、アダチサンが撒いた小さな種が細い幹をつけすこしづつ時間の堆積のなかで大きく育っているようなきもちがします。
足立さんになりかわって、こころから歓迎とお礼を申し上げます。
青島は、実に実に美しいところです。
2018/12/3(月) 午後 9:54 [ ぜ ]