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奇遇物語 井上睦三 <今回は、青島中学25期生同窓会誌第46号(2008年7月)から 転載させていただきました。筆者は井上睦三氏です。> ↑青島日本中学校 △奇遇 其の一 「おい! 井上居るか!」 とドアが開いて警官が入って来た。 昭和25年晩秋、私は阪神香炉園の回生病院結核病棟に入院し、安静時間だったので静かにベッドに横たわっていた。 何で? 何も悪い事もしてないのに警官に呼び捨てで呼ばれるんだ。驚いて身を起こした。警官は、 「俺だ。俺だ。青島の竹島だよ!」 と名乗った。竹島? 青中同期の竹島幸雄だったら、小柄で童顔だったぞ。 目の前に立つ、竹島と名乗る男は背が高く、目付き鋭く、厳めしい人相ではないか?と暫く不審に思った。 彼は19年予科練に行き、敗戦で消息不明、私は終戦で引揚げ、空白の6年の歳月が、すっかりお互いの風姿を変えていたのだ。 彼も結核で同じ回生病院で療養し、退院直後に、入れ替わって私か入院した様だった。彼はこの日、定期検診で来院、顔見知りの患者に、最近青島の話をよくしている患者がいると聞いて、商売柄私の身分を調べ出したとの事たった。 暫し、青島の思い出話に話題が尽きなかった。 △奇遇 其の二 昭和27年、私は大阪西淀川区佃町9丁目の本多製紙工場の倉庫係員として勤務していた。 工務部請求のベアリングの在庫が無かったので、1丁目の工員店に調達に出た。佃町は阪神工業地帯の一角に位置し、何時も煤煙が煙り、化学工場が出す多種雑多な異臭・悪臭が漂っていた。5丁目辺りだったか、工場の壁に身を寄せ、作業服が白い粉で汚れた3人の工員風の男がタバコを吹かして休んでいた。そして3人の男が、一斉に私をジロジロと見つめ、何かイチャモンをつけられそうな気がして、払は警戒しつつ側を急ぎ通り過ごそうとした。 その時である。 「おい。井上と違うか?」 と声を掛けられた。えっ、何でと思いつつ3人の男の顔をヨクヨク眺めると ナント青中柔道部の三人男、大田邦夫、安川芳昭、永安義人の3人がニヤニヤしているのに驚いてしまった。 お互い什事中でもあり、この時には時間が取れなかったのでユックリ話は出来なかったが、これを機会に交友が始まった。 彼らの勤め先は近藤製粉株式会社で、社長が青島に縁かおる方で、3人同時に採用されたと話していた。 △奇遇 其の三 昭和28年、私は阪急沿線・仁川にある本多製紙独身寮に居住して通勤していた。 阪急電鉄今津線の仁川て宝塚発今津行きの満員電車に乗り、終点今津で降り阪神電鉄今津駅から尼崎経由、出来島駅で下車していた。 或る日、阪神・今津駅の改札口で通勤定期を見せて通り過ぎようとしたら 「モシ、モシ・・・」 と駅員に呼び止められた。 以前、駅員に期限切れの定期券を指摘された事が有り、「アレッ又か?」とドキリとして脚を止めた。阪神電鉄の制服を着た駅員が、 「ヤッバリ、井上じゃないか!」 と言った。つくづく駅員の顔を見詰めると、二小の同級で青中では同じ園芸部に属していた八栗久雄君だったので、私も思わず、 「オーッ!」と奇声を上げて喜んでしまった。 通勤ラッシュ時で、人ゴミに揉まれて落ち着いて話も出来ず、又の再会を約しながら別れてしまった。私は通勤時に又会えると思っていたが、電鉄会社は世帯も大きいから職場も激しく異動するのだろうか、ナカナカ再会の機会が訪れなかった。 後日、彼からの手紙で、彼も胸の病で長期入院の末退社。群馬県の田舎で奥さんと養鶏場を営んでいると連絡があった。 その後、魚山会総会での再会を楽しみに待ち望んでいたが、生き物・鶏相手で暇が出来なかったのか、残念ながら再会を果たせないまま、お先にと彼は天国に旅立ってしまった。 謹んでご冥福をお祈り致します。 ↑ドイツ時代の青島風景。写真は原山さん提供。 △奇遇 其の四 昭和29年頃だっただろうか。私は会社の帰途、阪急今津線宝塚行きに乗り西の宮駅に着くと、大阪・神戸本線からの乗り換え客が大勢乗り込んで来た。 吊り皮に手を伸ばして立っている私の横に来た男とフト顔を合わした。 どこかで見た様な顔だなあ、と思った。相手も同様に思っているらしく、頻りに首を傾げていた。・・・ほぼ一瞬の間を置いてお互い同時に思い出したらしく、 「おぉ泉!」、「井上だな!」 と声がブツカッだ。感激の一瞬だった。 今、何処に住んでいる?と尋ねるとナンと奇しくも同じ仁川たった。彼に是非家に寄ってくれと誘われた。家は駅の近くにある池の辺に建つ赤屋根に白壁の奇麗な2階建ての邸宅だった。 彼との会話が弾み、彼は青中4年終了時に予科練に入り、神戸から松山の予科練に入隊したと言う。 そうだ。私か4年修了時の受験に失敗して、神戸から青島行きの泰山丸に乗船する時、埠頭で擦れ違ったのが戦時中の彼との最後の別れだった。 彼とは青島二小の時同級で、青中では組が別だった。彼は噂では軟派らしく硬派に属する私とは距離があったようだ。 仁川で再会した御蔭で、彼は顔が広いので在阪の青中OBの動向も段々と分かり始め、多くの人と交流が出来る様になった。 よく集まった常連は泉・井上・谷口・田上、それに1級上の長林さんで、呑む・打つ・買う?の親交が深まった。 休日前夜になると、誰となく誘い合い、梅田の飲み屋で梯子を重ね、その上、麻雀倶楽部で終電車ギリギリまで遊んだものだ。御蔭で私のフトコロは絶えずピィピイ状態…正に悪友達だった。 夏のお盆連休の時は、仁川の泉邸に5人が集い、暑いから庭の芝生の上にマージャン台を出して順番に一人がビールを飲みながら休憩し、交代4人打ちの真剣勝負で、36時間も牌をジャラジャラさせる程夢中になり、全く無茶だった。 よく奥さんも接待に辛抱されたと感心しつつ、ご好意に甘えてしまった。 然し、歳老いたこの頃、アノ頃は皆若く元気だったな・・・二度と来ない青春だった・・・と懐かしくかつ詫しい思いがしてならない。夢を見ている様だ。 嗚呼、青年老い易く、後期・・末期医療制度の厄介にならんとするか。 終わり。
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どれもこれも、興味深く拝読しました。昔?の物語はいつも抒情があふれていますねえ。
それに比べて今のお話はどれもころも乾ききって、リリシズムのかけらもありません。
ところで、この写真は中国人のたばこ売り?
2010/8/3(火) 午前 9:59 [ ぜん ]
ぜんさん、この時代のお話はほんとにおもしろいですね。写真のほうはあまりにも古いので、解説できません。どこなのか場所も特定できません。心当たりのある方は教えてください。
2010/8/3(火) 午後 0:24
おっしゃる通りです、ただ、こういうものを眠らせないできちんと後世に伝えても行かなければなりません。
朝から国会中継を見ていますが、つくづくこの国が嫌になります。あんちゃん、ねーちゃんのおバカな政治家が雁首をそろえて、ふんぞり返って居ます。中には具体的にに知っている人間もいますが、どう考えてもいけません。国家や社会をけん引していくレベルの人物ではありません、ね。
すべてが内向きで独りよがり、哲学がない、全く教養というものが欠落していますよ。
2010/8/4(水) 午前 9:31 [ ぜん ]
ぜんさん、ドイツはこういう写真をきちんと保存しているのがすごいですね。青島歴史資料室にも少しずつ資料が集まってきています。整理が進めばきっといいものができるでしょう。
私はもう15年以上も日本を離れていますから日本の政治のことはよくわかりませんが、右も左も引き篭り集団と化してしまっていますね。日本の若者たちがぜんさんの娘さんのように中国に目を向け、留学や仕事に殺到するぐらいになって欲しいですね。
2010/8/4(水) 午前 10:13
青中の写真を見て思い出しました。あの塔には音楽部がありました。上にあるからブカブカドンドンやっても迷惑になりません。ラッパ部にいた同級生が転部したので覚えています。トランペットでいい音を出していました。
1小か3小出身の野村君でした。小学校時代に水泳大会で平泳ぎの名手でした。どうしても勝てなかったが口惜しかった。
2010/8/5(木) 午前 10:55 [ 直大 ]
直大さん、いろいろ思い出しますね。この写真は私の長兄が撮ったものです。素人写真ですが今になれば貴重ですね。平泳ぎの名手野村君、羊会のメンバーで覚えている人がいるでしょうね。機会があれば誰かに聞いて見ましょう。
2010/8/5(木) 午後 0:49