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第一小学校の屋根裏 先日掲載した、青島第一日本国民学校の内部の写真の続きです。 私が6年生のときの教室は3階にありました。 コの字型の校舎の中庭で毎朝朝礼が行われ、 終わると並んで3階の教室まで階段を上がりました。 この教室はもともとは講堂があったところで、 そこを四つに区切って教室にしましたから、 一つ一つの教室の広さはかなり広く、 50人近い生徒が机を並べても後ろには余裕がありました。 ↑コの字型校舎の中庭。 1階右側の入り口から階段を上がって教室に向かった。 ↑この階段を上がって3階の教室に入った。 その教室の屋根裏のあたりに上がってみました。 暗くて危険な屋根裏ですので写真はM田さんに撮ってもらいましたが、 真ん中に板を渡した通路のようなものがありました。 屋根の上に旗を上げるときはここから屋根に上がったのかもしれません。 数多い青島第一小学校出身者と言えども、 この薄暗い広い屋根裏まで上がった人はいないでしょう。 ↑屋根裏に上がる階段が見える。 ↑屋根裏にある部屋。四葉の形は1小のマークか。 ↑屋根裏の広い空間。板を渡した通路が見える。 朝の朝礼のことで思い出したことがあります。 6年生のもう卒業間際のときでした。 そのときは6年生だけ残されたと思いますが、 壇上に上がった校長先生から「ラブレター」についてお叱りがありました。 6年生の男子が、女子生徒にラブレターを渡したというのです。 当時は男女別学で男女交際はご法度ですから、 学校側としては大問題だったのでしょう。 私はまだ初心な少年でしたから、 すごい6年生がいるもんだと感心するばかりで、 ラブレターを書くのがなぜいけないことなのか、 意味もよくわかりませんでした。 軍国主義時代の朝礼の思い出です。
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一小の教室ならともかく屋根裏までよく写真を撮らしてしれましたね。校舎ない総てが開放されたのですか?ところで一小、二小は3年生以上は男女が分かれたクラスになっていたようですが、昭和15年に新設された三小に転入した生徒は男女の区別無く6年卒業するまで同じクラスでした。この事は当時の三小の校長の独断で決定された事と思いますが、今考えてみますと当時の日本人の考え習慣から見て実に難しい決定をなされたものだと感心せざるを得ません。(当時の校長は横山○○さん、羊会会員菊池信子さんのお父さんです)
2010/9/4(土) 午後 0:53 [ ターチャン ]
tadaoさん、屋根裏まで上がって写真を撮るというのも珍しいでしょうね。これも成り行きでそうなったのですが、とに角、完全に軍の管理から離れたという証拠です。
3小が男女共学だったというのは校長の信念がよほど強かったのでしょうね。菊池さんにお父さんのことをお聞きしたいです。1小では校長排斥運動が起きていました。理由はわかりませんが6年2組担任の立山先生が首謀とみなされ、校長と共に左遷されました。今となっては真相は闇ですが、このブログでも書いてみたいと思います。
2010/9/4(土) 午後 5:43
少し手を入れれば、十分に使えそうな気がするのですが、、、。庶民の住宅難や公共の建物不足とは無関係に様々な建物がさまざま事情のも下で無駄になっているのではないでしょうか。
旧日本領事館もそうですが、こだわりを捨てて未来志向で再利用を考えるべきものがもっとたくさん青島にはあるのかもしれませんね。
それにしても軍国主義とは、何とも無粋なものです。
七つ八つより、いろはを習いはの字忘れて色ばかり。
2010/9/6(月) 午前 8:57 [ ぜん ]
ぜんさん、この建物が保存され有効に使われることを願っています。このあたり一帯は間もなく再開発されますが、無粋な高層ビルの中にあって一際輝くことでしょう。
軍国主義時代の教育の実態をみなさんに知って欲しいですね。
2010/9/6(月) 午後 5:29
そういうやりがいのある仕事というか、運動とでもいったものをして過ごせれば、残された時間に悔いはないんでしょうね。
個人としてもとりあえず生活生が確保されるほどの収入とか住まいとか、そういう環境が整えば青島にすぐにでも行きたいくらいですよ。諸般の事情がうまくいきません。
もっとも大きな障害は、やはり年齢ですねぇ。
何でも最初は、夢のようなな現実性のない物のように見えるのですが、やはり誰かが口を開き誰かが動きださないと、何も始まりません。
ここで、こうやって青島を懐かしがり、何とか記録にとどめようとする運動や芽吹きは大きな意義があります。
やたらと面打ち名人や色の白いニワカ百姓を見すぎたせいかも知れませんが周りの人間は、妙に内向き、理性的、おとなしすぎるような気がしています。
2010/9/7(火) 午前 1:00 [ ぜんそう ]