青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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太平角一路と栄城路の家





四方路と維県路の探訪を終えた私たちは、

栄城路と太平角一路に向かいました。

どちらも八大関の別荘地のど真ん中です。

栄城路1号と41号に日本人の方が住んでいたそうです。

41号の家が先に見つかりましたがかなりの豪邸です。

広い庭に樹木が生い茂り、豪邸全体の写真を撮ることもできません。

ここに住んでいた方が引越しされて1号にも住んでいたそうです。

こちらも広い庭のあるお邸でしたが、

足の悪い私は道路の奥まで歩く元気はなく写真は諦めました。


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   ↑栄城路の日本人旧宅。

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   ↑鬱蒼とした庭に隠れて豪邸の全体像はわかりません。




次に向かったのは太平角一路11号です。

ここは私のブログにコメントを寄せていただいた、

「むかみき」さんの旧宅です。

太平岬の根元部分に当たり、私も一番好きな景勝地です。

元イギリス大使館別荘地跡の番地が10番地で、

次が21番地に飛んでいましたので一度通り過ぎ、

また戻って、その間の道を入って行きました。

一番奥まったところに3階建ての瀟洒な建物が見えました。

それが11号でしたが、

現在、内外装とお庭のお手入れ中で住人はいません。

道路の途中の住宅も工事中で車が通れず、

写真はM田さんにお願いしました。


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   ↑太平角一路11号のプレート。

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   ↑3階建ての瀟洒な建物はただ今お手入れ中。

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   ↑さぞ見晴らしもすばらしいでしょう。



栄城路も太平角一路も、

私のように青島の下町に住んでいた者にとって、

こんなすばらしい環境の豪邸で暮らしていたとは、

まことにうらやましく、夢のようなお話です。
四方路と維県路の昔と今




ようやく青空が広がる天気になり、気温も上昇。

街行く人たちの装いも夏らしさに逆戻りです。

9月16日(木曜日)、M田さんの車で旧市街に繰り出しました。

先ずは、ドイツ占領時代の風景を集めた絵葉書の中から、

四方路の一枚を選んで現在の風景と比べてみることにしました。

絵葉書では二階建ての建物が、今は三階建てになっていますし、

絵葉書では道路の先が坂道になっていて山が見えますが、

現在は坂道の周りに建物がたくさん建って山が隠れてしまっています。

でも、当時の四方路の雰囲気はそのまま残っています。


イメージ 1

   ↑昔の四方路。ドイツ占領時代の青島風景から、

イメージ 2

   ↑現在の四方路。
    道路前方の坂道は見えますが、建物に隠れて山は見えません。




次は四方路と交差する維県路の絵葉書です。

ここはまだ出来たばかりの素朴な商店街の感じがします。

維県路の一角に古い建物が残っていましたので

車を近くに寄せてよく見ると、

やはり建物は昔のままで

少し手を入れたものだということがわかります。

剥がれた壁の下から石を積んだものが見えますし、

屋根の上にある三角の屋根は、

屋根裏を改造して部屋を造り、小窓にしたもので、

粗末な材料から見てもあとから付け足したものとわかります。

また、壊れた看板の下から曲線の窓の上部が見えますが、

これも絵葉書の通りです。


イメージ 3

   ↑絵葉書の維県路。素朴な商店街という感じ。

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   ↑現在の維県路。
屋根裏を利用して小部屋を造り、三角屋根を付けた。

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↑壊れた看板の下に窓の上部の曲線が見える。



一人ではつい見落としてしまい勝ちな細かいことも、

M田さんのおかげで的確に比較が出来ます。

大きな収穫を得て次の目的地へと向かいました。
ゆっくり進む住宅取り壊し




天候不順でM田さんと計画した旧市内めぐりも流れ、

青島ニュースをお知らせすることが出来なくて申し訳ありません。

今日(13日)は、やっと薄日が射す天気に回復、

生徒の張さんも明るい半そで姿でやってきました。

やはり9月から冬の格好では気持も晴れません。


張さんは今月末に大阪へ留学しますので、

準備は進んでいるか聞いてみました。

冬物衣料をたくさん持っていくつもりだというので、

日本の冬はそんなに寒くないから心配することはないよと、

アドバイスしました。

とは言え長い間日本を留守にしている私ですから

これから日本に留学する人に細かいアドバイスするのは

あまり自信がありません。

中国人の留学経験者に聞くのが一番ですよと逃げました。


午後、窓から外を見下ろすと、

吉林路界隈の取り壊しが少しずつ進んでいました。


イメージ 1

   ↑吉林路界隈の取り壊し中の住宅。以下同じ。

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庶民住宅の残骸はあまりにも小さく、

こんな狭い空間に人々が暮らしていたのか、

と哀れでもあり、健気でもあります。

破壊の跡にどんな街が生まれるのか、

青島の街づくりのお手本を見せて欲しいものです。

最近の頂き物

最近の頂き物



青島は8月末から天候不順が続き、

晴れ間がまったく見られないという情けない毎日です。

果物も葡萄の甘味がイマイチで買うのも躊躇してしまいます。


最近いただいたものの中に梨があります。

日本の“幸水”はすっかり定着したらしく、

生徒が持ってきてくれました。

これは甘味も充分で見た目もいい形をしています。

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   ↑幸水か、豊水か。日本の梨も定着(?)。




二十世紀梨に似た白い梨もいただきました。

形は不揃いで甘味も本場の二十世紀と比べるべくもありませんが、

みずみずしさだけは高級感を与えてくれます。

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   ↑これは二十世紀か。形は不揃いで味もまだまだ。

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   ↑皮をむいてみると、みずみずしさはまずまず。




T君が持ってきてくれたのはお持ち帰り用の牛丼です。

入れ物は再利用ができそうな(?)感じがします。

日本は牛丼戦争勃発で各社しのぎを削っているようですが、

青島への進出まではまだ手が回らないのでしょうか。

日本味の牛丼が食べたいものです。

イメージ 4

   ↑お持ち帰り用の牛丼。日本の吉○家の牛丼が食べたい。

昔、青年学校があった

昔、青年学校があった


青年学校といってもご存知のない方が多いでしょうが、

昭和15年(1940年)には新たに青年学校令が発せられ、

この年から5年制の義務教育が始まりました。

これにより日本の義務教育は小学校尋常科の6年間と、

高等科の2年間、さらに青年学校の5年間(男子のみの定時制)、

合計13年間という長さになったのです。

国民皆兵の時代ですから二十歳になると徴兵検査があり、

健康な者は皆軍隊に入って新兵の訓練を受けなければなりません。

学歴のまちまちな者が一斉に訓練を受けるわけですから、

当時の軍部は新兵教育にはずいぶん頭を悩ましたようです。

そこで古くからあった青年学校と、

軍事教練を目的とした青年訓練所を合併して、

新たな青年学校を発足させ義務化が始まったわけです。


青島の青年学校は第一日本尋常高等小学校に併設され、

校長には中村義之校長が兼任しました。


イメージ 1

   ↑第一小学校の玄関で記念撮影。
    “日本青年学校”の看板が大きく目立つ。
    左側中村校長。写真;アカシア会提供。




昭和17年(1942年)に青島中央国民学校が新設され、

小学校の高等科と青年学校が独立して新設校に移転しました。


青島中学を落第した不肖私もこの学校で1年間学びましたが、

2階の教室に青年学校の教室があり、

ときどき授業をやっていました。

あまり顔を合わせたことがありませんでしたから、

授業と言っても数えるほどの時間数ではなかったかと思います。


時代が変わって、日本は敗戦、日本人はみんな内地に引き揚げました。

私は高崎逓信講習所を経て高崎郵便局電信課に勤務しました。

昭和22年(1947年)、時はまさに学制改革の真っ最中。

最後の青年学校がまだ細々と存続していました。

1ヶ月に1、2回、課長に呼ばれ、


「今日の午後、青年学校があるから行って来い」


と言われて仲間数人と出かけました。

義務教育といっても官庁勤めのひまな新米社員が集まるだけで、

民間の会社に勤める若者はそんな暇はありません。


授業は小学校の空き教室を利用して、

年配の先生から一般教養のようなものを聞かされ、

天気のよい日は周りを散歩して終わるという簡単なものでした。


昭和23年(1948年)8月、

私は勉学の大望止みがたく、いよいよ東京へ出る決心をし、

大手町の東京中央電信局に転勤しました。

寮があった東京大森はまだ焼け跡が生々しい一面の焼け野原でした。


当時、秋葉原から歩いて10分ぐらいの便利なところにS学園があり、

9月の新学期が始まると早速入学手続きに行きました。

この高校も小学校の教室を間借りした夜学専門の学校で、

受付にいた若い男が願書を渡してくれました。

正直に言うと、私にはまともな学歴はありません。

小学校高等科1年を終了すると

北京の電気通信学院に4月から8月の終戦まで在学し、

内地に引き揚げてから高崎逓信講習所を1年。

これだけの半端な学歴ではなんとなく恥ずかしくなったので、

青年学校に1年間在学したことを学歴に加えました。

ところが私の入学願書に一通り目を通した受付の若者は、


「あなたは高校の2年に編入することが出来ますよ」


と言うではありませんか。

定時制高校は4年制ですから2年に編入できれば

3年間で卒業できます。

してやったり!

とばかりにずうずうしくも2年に編入することにして、

その場で面接を受けました。

当時は学制改革の混乱期で、しかも夜学ですから、

面接だけでいとも簡単に入れる時代。

しかもありがたいことに、

1年に数回しか通わなかった青年学校の学歴が堂々とものをいう時代でした。


都内のどの夜間高校も中卒者が高卒の資格を取るために、

卒業間際の4年生に編入希望者が殺到し、

定員などなんのその、生徒数は異常に膨れ上がり、

学校経営は空前の好景気でした。

私が通ったS学園も世の中が落ち着くと板橋の新校舎に移転し、

現在はいっぱしの私立高校として繁栄しています。


ちなみに、あのとき受付に座っていた若者は当時の校長の息子で、

今ではS学園創立者の二代目として君臨しているようです。

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