青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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間寛平さん青島を出航

間寛平さん青島を出航




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   ↑間寛平さん青島に現る。撮影は由君。




マラソンで世界一周をしている間寛平さんが

青島を出航するというので

1月3日は早朝から200人のファンが

ヨットハーバーにつめかけたそうです。

M田さんの話によると、

「青島にこんなにたくさんの日本人がいたのか」

とびっくりするほどの人出だったそうです。


北京オリンピックのヨット競技では日本選手はパッとせず、

せっかくの青島ヨットハーバーも

日本のみなさんには馴染みが薄かったのですが、

間寛平さんのおかげでテレビ中継され、

脚光を浴びる(?)ことができました。

間寛平さんは見送る日本人のみなさんに

精一杯のパフォーマンスを披露して喜ばせ、

元気に福岡に向かって出航したそうです。


引き篭り中の私ですが、

由君がその日の様子を撮って送ってくれました。

どうぞお楽しみください。

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   ↑間寛平さん青島ヨットハーバーを出航。撮影は由君。

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   ↑間寛平さん元気にヨットに向かう。撮影は由君。
安いショウロンポウ(小籠包)




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   ↑小さくて形も悪いショウロンポウ。これで3元だから安い。




うちの近所に、小道が2本あります。

1本は食堂街で、お昼時になるととても賑わいます。

私がときどき鍋貼(焼き餃子)を買うのはこの通りにある店です。

もう1本は道幅が広くて歩きやすいのですが、

食堂は1軒しかなく、人通りもほとんどありません。

その1軒の店でショウロンポウ(小籠包)を売っています。

お昼でも人通りがないので、足の悪い私でも安心して買えます。

写真のように小さくて、形も悪く、味もおいしいとは言えませんが、

何しろ一籠3元ですから、安い!

量は少ないのですが、私の小腹を満たすにはこれで充分です。



   ↑蒸し餃子もあります。これも3元。




パンも牛乳も、何かも値上がりのご時勢、

ニュースによるとコーヒーの産地が政情不安で値上がり必至とか。

今年は節約の年になりそうです。

朝のコーヒーも緑茶に切り替えることになるかも。

M田さんちのお雑煮

M田さんちのお雑煮




正月二日、M田さん宅でおせち料理をご馳走になりました。

最後の〆にはうれしいお雑煮です。

青島で手作りのおせち料理とお雑煮がいただけるとは

何という幸せでしょうか。

Y先生ご夫妻、由君ご夫婦とともに、

お昼から夕方5時頃までゆっくりとくつろぎながらの語らいも、

日ごろ日本人とのお付き合いが少ない私にとって、

とても大切な時間です。

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   ↑手作りのお雑煮。お餅も自宅で餅つきをしたそうです。




青島の話題として、

今年は9月から一滴の降雨もなく、

山東省の農家は小麦の種まきがでない状態だとか。


また、浮山の工事現場で

日独戦争時の戦死者の名前が刻まれたものが発見された。


というニュースが報告されました。


小麦不足という心配なニュースもありますが、

私にとって、

2011年がきっとよい年になると予感させる一日でした。

2011年を迎えて

2011年を迎えて



昨年は皆様のお陰でいろいろなことを体験でき、

とてもいい年でした。



今年も白水寛魚先生から干支の兎の色紙をいただきました。

足のリハビリをがんばって、大いに跳びはねたいと思っております。

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   ↑白水寛魚画伯の墨絵の色紙。今年は大いに跳びはねます。




先日、ビザの延長手続きを終わり、

今年も引き続き青島で暮らすことが決まりました。

みなさんの青島へのおいでをお待ちしています。

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   ↑青島の夜明け。
昭和20年(1945年)12月(二)




二、塘沽港から群馬まで

 引き揚げ者を乗せた貨物列車は天津西駅に長い時間停車した。ゆっくりトイレにも入れた。ホームにあったトイレからズボンを穿きながら出てくると、ホームを歩いていた国府軍の兵士が2人、私のベルトを目ざとく見つけた。腕時計などをしていたらたちまち取り上げられるところだ。私のベルトは高級品ではないが、幅が広くて、子供心に自慢のベルトだった。あわてて隠したが間に合わない。一応抵抗したが大人ふたりに敵うはずもない。兵士はせしめた戦利品に満足しながら行ってしまった。残された私はズボンを腰に止めるためのひもを探しながらホームを歩いた。紙紐が一本落ちていた。それを拾ってズボン通しとズボン通しを結んでベルト代わりにした。
 やがて全員に、下車して整列するよう命令が出た。国府軍のお偉い将軍が拝謁したいから所定の場所まで歩け、ということだった。リュックを背負って20分ほど歩くと、学校の運動場のようなところに着いた。そこでさらに2〜30分待たされ、やっと馬に乗った将軍が現れた。将軍は居並ぶ敗残者の前をただ素通りするだけで拝謁は終わった。私たちは将軍の気まぐれに長い時間付き合わされ、不満と疲れでぐったりして駅まで戻った。

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   ↑天津駅の絵葉書。当時の天津駅が現在の天津西駅。
    (アメリカ在住原山さん提供)。




 引き揚げ列車が塘沽駅に着いたときは、日がとっくに暮れていた。塘沽の港に並んでいる倉庫の前で引揚者の一隊は再編成された。華北電電の班は解散し、行き先別の班に分かれてそれぞれの倉庫に入った。私は群馬県行きの班に入った。青島からずっと一緒だった石山君も一緒だった。体が大きく力があり頼りになる少年だった。内地生からは岡本君、林君、同姓同名の田村君が2人いた。
 電気通信学院に入学したとき、内地生は日本から陸路を通ったため2週間ほど遅れて入学した。当然のごとく、先に入学した現地生と遅れてやってきた内地生の間に勢力争いが生まれた。現地生の親玉が先輩風を吹かして内地生の弱い者をいじめたらしい。しかしそれもつかの間、内地生の農民軍団の反撃に合い、現地生の親玉はあっさり征服された。そのときの内地生の親玉が群馬の岡本君だった。農業で鍛えたがっしりした体は誰もが一目置いた。
 倉庫に入るとすぐ食事の準備だ。岡本君を中心に群馬の農民軍団は逞しかった。大人に混じって炊事当番や使役によく働いた。私は積まれた荷物に寄りかかり、ぐったりするだけだった。私はとうとう最後まで炊事当番は免除され、みんなが運んでくれる食事をただいただくだけだった。

 「アダチ、何かいいものがあるらしいから探しに行こうぜ」

 石山君が言うには、引き揚げ船が出発したあとの倉庫に、引き揚げ者が置いていったまだ使えるものがたくさんある、ということだった。2人で、空きになった倉庫を覗くとガラクタがいっぱい散らばっていた。

 「おい、これまだ履けるぞ」

 石山君が拾ってきてくれたのは使い古された軍靴だった。敗れたとはいえ日本陸軍の履いていた軍靴は頑丈で型崩れしていなかった。私はそれに履き替え、ほかにまだ使えるものはないか漁った。石山君は毛がふさふさして暖かそうな防寒帽を見つけ、被っていた。私もさらに軍人用の冬ズボンを手に入れ重ね穿きした。ぶかぶかのズボンにぶかぶかの靴、ぶかぶかのオーバーを着た引き揚げ少年のいでたちは、今の人が見たら噴出すに違いないが、これで群馬まで寒さを凌げることになった。

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   ↑天津のイタリア租界跡。98年撮影。
    南欧風の白い建物が目を引く。




 引き揚げ船は激しく揺れた。船はアメリカ軍が沖縄戦や南方戦線で使用し活躍した上陸用舟艇母艦(LST)だった。やはり人間の乗る乗り物ではない。甲板に板を並べた急造トイレは波を被って近づけない。みんなどうやって用を足したのだろうか。
 船中で亡くなった仏は、荒海に投げて弔った。

 船は佐世保に着いた。内地の冬の光は優しかった。収容所までは遠く、消毒のため裸の上にオーバーを羽織り、歩かされた。途中、頭からDDTの粉をかけられた。いつ風呂に入ったのか思い出せないし、洗濯したのも記憶にない。虱がセーターに住み着いていた。

 この収容所でも群馬の農民軍団は活躍した。炊事当番はもとより、近くの収穫済みの畑からジャガイモを掘り出し、食料の足しにした。ごろごろしていたのは私だけだった。
 土手の上に貨物の車両が停まっていた。中国の列車を見慣れた私にはいかにも小さく、まるでおもちゃの貨物車両を見ているようだった。

 収容所で2,3日過ごすと引き揚げ者専用列車が出ることになった。やっと人間らしい客車に乗ることが出来たが、荷物が多くて私のような体の小さな者は通路に積み上げられた荷物の上に座った。列車は時々大きな駅に停まりながら一昼夜走って大阪に着いた。

「この列車はここで打ち切りになります。みなさん降りてください」

 と言うアナウンスが流れた。誰も降りなかった。列車は関東方面に行く引揚者でまだ超満員だった。ここで降ろされてはたまらない。引揚者専用列車とはいえ、一般乗客が無理やり乗り込んでトラブルが起きたこともあった。ここで降りても別の列車に乗れる保証はない。乗れたとしても、荷物の多い引揚者と一般乗客との間に摩擦が起きることは明らかだった。

 引揚者の世話役の人が回って来て、

「これから駅側と話し合いをしますので降りないでください」

 と触れ回った。世話役の中には私の荷物を足蹴にした教官も入っていた。若くて独り者だから世話役は適任だろう。
長い時間がかかって交渉は成立し、引き揚げ者専用列車は予定通り東京まで運行することになった。集団交渉のはしりだったかもしれない。

 東京は焼け野原だった。私たち群馬行きの一団は上野駅から上越線に乗り換え、高崎へ向かった。高崎でいよいよみんなとお別れだ。電気通信学院の農民軍団は生き生きと、それぞれの故郷へ散っていった。石山君は遠い親戚を頼って、まだ見たことのない沼田までそのまま乗って行った。私は八高線に乗り換えて群馬藤岡まで行く。小学3年生から5年生まで過ごした伯父の家にまた戻ってきたわけだ。わずか3年前、青島に戻れる喜びいっぱいで群馬を後にしたばかりなのだ。うれしいはずはない。
 赤城、榛名、妙義の群馬三山は三年前と全く変わりなく、夕暮れの彼方に黒々と横たわっていた。

(おわり)


□□ 後日譚 □□

石山君はその後大阪で暮らしているという葉書が来て以来音信は途絶えた。
田村君は年賀状をまめに書いてくれた。もう一人の田村君は早逝した。
80年代から華北電電(北電会)や電気通信学院の同窓会が行われるようになった。
我々も田村君の呼びかけで集まった。岡本、田村、私のほかに山東省博山出身の池谷君が参加するようになった。
92年、みんなで青島、博山、北京を旅した。
岡本君は前橋の地主の家の婿養子になり悠々自適の暮らしをしている。

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