青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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中村八大氏のお父さん

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日本には青島出身者の同窓会がたくさんある。
私の入っている同窓会は「羊会」という。
羊年生まれの集まりである。

青島出身者のための会報「青島」も発行されている。
青島は、かつて青島で暮らしたことのある日本人に、強烈な印象を残したのである。

―羊会のMさんからのメール―

「青島での生活には多くの思い出があります。
小学校2年に青島に行きましたが、まさにカルチャーショックで、見るもの聞くもの、それは全て珍しく、子供なりの楽しみと探求の毎日でした。

青島に行った時は最初信号山の中腹にある斎東路という所で、其処は見晴らしも良く、信号山の中腹ですから、入るのに有刺鉄線の置いてある進入禁止のところを超えて通ります。

朝、窓から下を眺めると兎が遊んでいます。休みの日は妹と誰も来ない山の中でおままごとをし、草花を相手に楽しい時間を過ごしました。」

羊会のメンバーで有名人といえば、作曲家の故中村八大氏がいる。
氏は、戦後間もなく、ジャズバンド「ビッグフォー」を結成して、人々を熱狂させた。
その後、永六輔氏と組んで数々の名曲、ヒット曲を飛ばし続けた。

「八大」という名前は、青島の「八大関」に由来すると聞く。
(これは本人から聞いたわけではないから定かではない。一つの伝説として書いておく)

八大氏のお父さんは、青島第一日本小学校の校長先生であった。

当時の小学校の思い出を、Mさんは次のように書いている。

「4年生の頃、校内放送が始まり、避難訓練のために使われたりしましたが、お昼の弁当を食べながら聞く生徒の朗読や、八大さんのピアノなど、今の学校にも無いような先進的なものでした。

中庭で朝礼がありましたが、校庭に全体を覆うように並んだ木立が強い日差しを遮り夏でも涼しく行われました。
これは中村校長が、夏の朝礼で子供たちが貧血を起こすのを防ぐため木を植えた、と戦後先生から聞きました。」

中村校長は、内地から新任の教師が赴任してくると、自ら船に乗り込んで出迎えた。

そして船の上から、港で働く中国人港湾労働者の姿を見学させた。

上半身裸で、真っ黒になって、重い荷物を運び、一輪車を押して行く労働者たちを、当時の人たちは苦力(クーリー)と呼んでいた。
クーリーは町でもよく見かけられた。

新任教師たちに、そのクーリーたちの働く姿を見せて、中村校長は言った。

「あの人たちをよく見なさい。あの人たちの姿を見て、軽蔑の念を抱いた人がいたら、このままこの船に乗って日本に帰りなさい」

中村校長は、軍国主義教育のさなかにあっても、時流に阿ることなく、日本人が民族的優越感を抱くことを厳しく戒めたのである。

中村校長のおかげで、青島育ちの日本人の中には、民族差別主義者はいない。

けだし、名校長であった。

青島出身の有名人としては、故中村八大氏のほかに、
作家の故南条範夫氏、
戦後の映画界に鮮烈なデビューを飾った故三船敏郎氏、
一カメラメーカーに過ぎなかったキャノンを、総合技術メーカーに押し上げた故賀来龍三郎氏、などがいる。

現在なお現役として活躍されている方としては、
社会評論家の日高六郎氏、
加藤蜂蜜会社社長で、青島加藤日本語学校を創立された加藤重一先生などがいらっしゃる。
羊会の田伏中子さんも家事評論家として活躍された。

中村校長のその後について、Mさんからメールをいただいた。

「文化人類学の高名な学者の祖父江孝男先生が『県民性』と言う本を書くに当たり、外地育ちの子女の事を取り上げるため、私が同行し茅ヶ崎に中村先生を訪ねました。

その時の話で、中村先生が戦争末期青島の居留民団で仕事をされていて、灯火管制のことで中国人に強制できないと主張したため、即刻日本への召還命令が出され、荷物を纏める時間もなく、帰国したそうです。

その後中国人の方々が荷物をまとめ、八大さんが使っていたピアノまで送ってくれたということでした。

(第一小学校の)栗原先生は私に「中村先生は日本が負けるということを知る立場にあり、自分だけがさっさと帰国されて、評判が悪いのですよ」と言われていました。

その後栗原先生とゆっくり話す時間がなく、中村先生のことを伝えられずになってしまいました。苦力の話と通じる話のように感じます。

この『県民性』では、女性で外地育ちの研究者が取り上げられていますが、私はM女史として登場しております。」

Mさんは、中国服研究の第一人者である。
                          (2005年11月)
                    
※ 青島に配属された教師
Mさんからのメールには、
「青島の小学校の教師は、九州全域の師範付属の優秀な教師が派遣されてきたものだったそうです。兵役の免除もあったようです。」
と書いてある。

※ 当時のクーリーと子供たち
―Mさんのメールから―
私の家は(斉東路から引っ越した)鉄山路で電電の社宅でした。
鉄山路は特徴のない街でしたが、港に物を運ぶ一輪車が列をなしてよく通りました。

その一輪車に積まれた袋に竹を切った用具を差込み、すばやく米や大豆などを盗む子供が群がり、一輪車の苦力は防ぐすべもなく進んで行きます。

近くに石炭ガラを捨ててある山がありました。コークスを拾う子供の姿が目に浮かびます。
                  
☆写真は中村校長旧宅(二階部分)

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