青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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小学校の遠足と言えば第一公園、つまり今の中山公園と決まっていた。

朝、大運動場に集合し、ラッパ卒が先頭に立つ。

時はまさに軍国主義華やかな時代である。

5年生になるとラッパ卒が選ばれる。
健康で、成績が優秀でないと選ばれない。いわばエリートだ。

そのラッパ卒の吹き鳴らす行進ラッパで歩調を取り、
軍国少年の一隊が意気揚々と校門を出て行くのである。

いつもは大運動場の門は閉ざされているのだが、この日だけは別だ。

思えば、私の小学生時代は戦争の時代であった。

小学校入学の前年1937年7月7日、日本は中国と全面戦争に突入。
同年8月14日、カトリック教会天主堂付近で日本海軍兵士狙撃されて死亡。
同年8月19日、青島在留邦人婦女子に対して引揚げ勧告。
時の青島市長沈鴻烈は、邦人の財産を保障することを約束。
翌日より総引揚げ開始。

この総引揚げによって内地に一時帰国した青島生まれの子供たちは、
生まれて初めて日本の地を踏んだことになる。

翌1938年1月10日、日本海軍陸戦隊、青島を無血占領。
同年3月、引揚げ中の邦人復帰開始。小中学校も再開。
(青島日本中学校校史より)

山口県の萩市で仮の暮らしをしていた私の一家も博興路の家に復帰。
4月、第一日本小学校に入学。

1941年12月8日、第二次世界大戦勃発。
このとき小学4年生。
小学校は国民学校と改称される。

小学生といえども、教育はすべて軍隊式であった。

勇ましく校門を出発した5年生の一隊は第一公園に到着し、
木陰の下でひと時を過ごす。

お昼の弁当を食べ終わった生徒たちが、公園の広場に整列していた。

そこへ、のこのこと私が遅れて戻ってきた。

すかさず怒号が飛ぶ。

「どこへ行っていたんだ!」

「弁当を取りに行ってました」

私の弁当はラッパ卒のD君のリュックサックの中だった。
出発前にじゃんけんをして、負けたほうが相手の弁当を持って行くことにしたのだ。
ところが、ラッパ卒は別行動をとって、公園内の忠魂碑のほうへ行ってしまった。

「誰に断わって行ったんだ! 黙って行くやつがあるかっ!」

私のことは、クラスのS君が先生に注進してくれているはずだった。
だが、S君の名前を言うわけにはいかない。

顔面に、容赦なくびんたが飛んだ。

振り上げた腕に全体重を乗せて振り下ろす、軍隊式のびんたである。

右に左に、私の小さな体はよろけた。

よろける度に、不動の姿勢に戻って耐えた。
私もまた軍国少年であった。泣き叫ぶわけにはいかない。

しかし、
5年生は男子組3、女子組3、合わせて6クラス。
全員居並ぶ前での屈辱のびんたであった。

屈辱にしゃくりあげながら帰途に着いた。
隊列は、声を発するものはいなかった。

誰かがうしろのほうで、

「○○、お前、立派だったぞ」

と声をかけてくれた。

友達の名前を言わなかったからなのか、

殴られても姿勢を崩さなかったからなのか、

それはわからない。

軍国主義時代の、苦い思い出は、もう要らない。
(2006年4月27日)

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