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聊城路の通りを、昔、日本人は「中野町」と呼んでいた。
現在、聊城路には有名な即墨路市場があるので、
聊城路というより、即墨路市場があるところ、といったほうが通りがいいかもしれない。
中野町は日本人商店街としてにぎわっていた。
例によって、「青島日本中学校史」から当時の様子を拾ってみよう。
「中野町は日本人商店街の中心地で、
隣に新町という遊郭街があって夜遅くまで賑やかであった。」
※注:前回「中山路の今と昔」に、
「寄宿舎から抜け出して「平康里」に通う剛の者がいた」
という中学生のことが書いてあるが、
この「平康里」という遊郭街が新町の中にあったらしい。
「青島神社(現貯水山)前より高台を越えて山東路(現中山路)に出る徳平路の一番高い所に猪俣獣院があり、そこが猪俣君の家だった。当時は珍しいスポーツカーがあった。
山東路の方に少し下がり左折すると中野町、新町があり、
角には博愛医院、写真館、カフェーがあった。
博愛医院の並びには書店、建築木工店、小間物店、・・・下田紙店、アメリカ靴店、薬局、・・(略)・・。下田紙店の向側には「一力」という「うなぎ」屋があり、東光堂売店、その次に日輪公司、その隣の角に英順楼という中国料理店があった。中野町を下ると西南堂、少し行くと塚本印房、道は登りになり中川洋行、・・(略)・・。
町つづきの新町の入口近くに橋爪さんの浴場があり、・・(略)・・
またその付近にスターというダンスホールや映画館の電気館もあった。・・(略)・・
新町への出入り口も人出が多く、軍艦の入港ともなれば水兵さんで一段と賑やかとなった。
時には外国艦船の入港が重なると酒の上での争いもしばしばあり、多くの話題を残した。」
(第十三回生 松崎強)
引用が少し長くなったが、当時の盛況振りを髣髴とさせるようである。
私が小学校高学年になるころは、戦局も厳しく、かなり寂れていたような気がする。
もちろん私は遊郭の存在など知らない。
遊郭とは違うが、書店の前の道を入ったところに、同級生の西島君の家があった。
彼の家は芸者の置屋で、大きな玄関を入ると広い座敷があり、
さらにその奥の方から、艶めかしい女性のさんざめきが聞こえてきた。
この屋敷の周りには大きな料亭などもあったらしい。
先日、青島にやってきた先輩のKさんが、
中野町の入り口の店に、まだ「カタカナの看板」があるかもしれない、
というので一緒に探してみた。
あった!
「カフエー・ネコ」
という文字が、はっきりと残っていた。(写真)
子供にはわからなかったが、この辺りにも大人の遊び場があったのだ。
(つづく)
※写真は聊城路と「カフエネコ」の看板
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