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I氏の「青島中学の思い出」のつづきをお届けします。
「青島日本中学校の思い出」つづき
軍縮時代の大正11年に甲種合格で運悪くくじで召集されて
廣島の連隊に入営した父が召集年齢ぎりぎりの45歳で現地召集されたのは
多分昭和20年の5,6月と記憶する。
当時青島では、
ここは軍港があり制空権は勿論制海権も失った日本にとっては
米軍に艦砲射撃を受けるので危険だといわれ、
かといって、日本に帰るのはもっと危険なので、
満州ならば、関東軍もおり安全だとのことで
伯父を頼って昭和20年の7月に陸路で済南、天津、北京、奉天などを経由して
1週間がかりで大連に着いたものの、まもなく終戦となった。
今思うとまったく馬鹿げた情報に踊らされて苦労しに行ったようなものだ。
おかげで帰国は昭和22年になり
学校も1年遅らせられて苦労もし又、損をしたが、
その後の人生を左右するような知人や友人に大連でめぐりあい、
就職や結婚で色々と世話になったので
人生何が幸いするかわからないとつくづく思ったしだい。
青島中学の同窓会である鳳雛会は来年で解散されることが決定し、
大連で編入した大連二中の同窓会はすでに昨年解散された。
今年の4月に50年ぶりに青島中学同窓会(鳳雛会)に出席した。
われわれ昭和19年入学者はブービー組(29期)で
昭和20年に廃校となったため、下は一年後輩がいるのみである。
最年長参加者は12期で92歳の先輩が1人居られた。
死んだ伯父と同学年なのでご挨拶したら伯父を良く知っており思い出話をした。
この同窓会も来年で終わりだ。
因みに校友会誌(鳳雛会)、によると
第一回の卒業は大正10年(1921年)、
今年1月現在で総会員数2933名、
物故者1328名、不明者902名、退会者69名、
差し引き現会員数634名となっている。
全員が73歳以上であるから今後会員数は急激に減らざるを得ない。
ある面では日本帝国の中国侵略の一助としての教育機関ではあったが、
戦前海外に開校された青島中学や
当時の優秀な日中の若者の為の高等教育機関として中国大陸に設立された
東亜同文書院(上海)、
建国大学(新京)、
旅順工科大学、旅順高校、
満州医科大学(奉天)、
はるびん学院、
等等の学校は、戦後60年を過ぎれば後輩も居らず
近々当時のエリートも死亡し同窓会なども消えてしまうかと
止むを得ないことと思うが寂しくて仕方がない。
日本に引き揚げて編入した学校は
その後、戦後の学校再編成で学力は低下し見る陰もなくなっていった。
小生の場合、郷里の廣島に帰国したが、一年遅れることを余儀なくされ、
やっと入った廣島県立第一中学はその後、
鯉城高校(現在の国泰寺高校)となりその後、
学区再編成で自宅から遠かった小生は
有無を言わさず県立観音高校(県立二中の後身)に強制転校となった。
数学は微分積分の初歩まで勉強したのに再度1次方程式に戻り、
歴史などは世界史も日本史も中世までを何度も習い、
近世以降はまったく習わずじまいで張り合いのない、
且つ、無駄の多い中高校生活であった。
でもこの年になるとすべてが限りなく懐かしい。
(完)
※写真1は海洋大学入り口
写真2は黄台路にある元青島日本高等女学校
写真3は黄台路
写真4は益都路一帯再開発第一期工事で完成した大型スーパー。近日オープン。
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