青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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青島中学の8月15日

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それぞれの8月15日。

青島日本中学校で敗戦の日を迎えたHさんから原稿をいただきました。

当時Hさんは中学2年生。

どのようにあの日を迎えたのでしょうか、ご一読ください。

以下、Hさんの8月15日をご紹介します。


≪私は1945年の8月15日を軍需工場で迎えました。

青島中学の生徒は学徒動員され、

2年生は機械班、旋盤班、鋳物班などの部署につきました。

私は鋳物班に配属され、来る日も来る日も地雷の鋳型を作っていました。

朝礼で

「総員○○名、欠席○名、現在員○○名」

と工場長に報告していましたので、私が班長だったようです。

ある程度の型数が纏まって、最初の鋳鉄を流し込む日が8月15日でした。

その日は、朝からコークスを燃やし材料(銑鉄・鋼屑・戻し材)を入れ、

真っ赤に溶けた鋳鉄を中国人職人が型に流し込みました。

凝固・冷却後、型を崩して地雷の原型を取り出すのですが、

その作業は午後からの予定でした。


昼近くに先生から

「12時から重大放送があるので全員集合」

との知らせがあり、何事かと集まって天皇の放送を聞いたのですが、

雑音ばかりで何を言っているのか全く分りませんでした。

あんなのを何で「玉音」と言うのでしょう。

後で日本の敗戦を知らされ愕然としました。


その後「都合の悪いものは 燃やせ」の命令が出て、

ドラム缶で資料らしき紙類をどんどん燃やす日が数日間続きました。

私たちの地雷は作りかけで終わったので、

誰も死傷させることがなかったのは救いです。


15日以後、街の中国人の目は冷たくなりました。

不幸にも中学校の制服が天皇の軍隊(陸軍)とそっくりでしたので、

中国人から罵声を浴びせられたり、

集団暴行を受けて怪我人が出たりしました。

国防色の戦闘帽にゲートルを巻いていましたので、間違われたのかも知れません。

天皇の軍隊に酷い目にあった中国人の仕返しを受けたのです。

間もなく学校は休校になり、引き揚げの日を待つことになりました。≫


※写真はいずれも中国海洋大学(旧青島日本中学校)にて
 写真4は運動場に下る坂道
 写真1は同階段
 写真2は運動場
 写真3は教室

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