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館陶路を少し大港のほうへ行くと、
旧朝鮮銀行跡がある。
三井幸次郎氏設計で1930年建築、とある。
日本が朝鮮半島を併合して間もなく、
発券機能と一般金融をもつ特殊銀行として、
朝鮮銀行が発足した。
植民地銀行としての役割を担った朝鮮銀行は、
旧満州、中国華北で現地紙幣を発行して軍費を調達した。
戦争末期ともなると、
日本国内で軍費を調達することは困難となり、
朝鮮銀行が無制限に発行する現地紙幣に頼ることになる。
そのため、現地は猛烈なインフレに襲われた。
1945年4月、
私は北京の華北電電・電気通信学院に入学した。
そのときの給料はすでに千円以上であった。
敗戦で引き揚げるとき、一人二千円まで持ち帰ることができたが、
学生の私でさえ、二千円を調達するのは容易であった。
内地では煙草一箱が10銭か20銭の時代である。
引揚者が、故郷へ向かう途中の駅で、
百円札を差し出して煙草を買おうとしても、釣り銭はなかった。
内地の人はまだ百円札を見たことがなかった。
「大陸部の猛烈なインフレを犠牲に、
日本列島内は戦争中もインフレに見舞われることはなかった。」
(多田井喜生「朝鮮銀行」)
1945年8月15日、
敗戦により、朝鮮銀行は直ちに閉鎖、
財産は凍結された。
『敗戦の前日』、私の父は、
魔がさしたのか、いつもの取引銀行ではなく、
朝鮮銀行青島支店から内地へ送金した。
あて先は、内地の中学に通っている息子(私の兄)。
金額は三万円。
今の金額にすれば、一千万円を下るまい。
1957年、朝鮮銀行は残った財産を元に、
日本不動産銀行として再発足する。
朝鮮銀行に預けた個人の預金、債権は、永遠に消えた。
当時、何かの雑誌に、
「朝鮮銀行の資産は、
自由党(今の自民党)結党資金に使われた」
という暴露記事が載ったことがある。
真偽のほどは闇だが、
大方そんなことだろう。
日本不動産銀行、のちの日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)は、
「経世会系」銀行とも言われ、
自民党幹部と太いパイプを持つ銀行であった。
1993年3月3日、金丸信の家宅捜索の際、
12億円のワリシン(割引金融債)が発見された。
日本債券信用銀行は、
竹下元総理、金丸自民党元副総裁の金脈として、
権力を支えていたのである。
山東省で、石炭のブローカーとして一身代を築いた私の父は、
敗戦ですべての財産を失い、
内地で再起を果たすこともできず、
一百姓として一生を終えた。
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