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昔、中山公園(当時は第一公園)に忠魂碑が立っていた。(写真1)
日独青島戦争の戦没者一千十四柱を祀ったもので、1917年に建設された。
「忠魂碑」の三文字は当時の司令官神尾光臣陸軍大将の筆による。
設計者は懸賞に応募して当選した淡島智蔵氏であった。
青島日本中学校校史には次のような思い出が載っている。
「公園の奥二百五十メートルほど北へ行くと、
忠魂碑が小高い丘の上に建っている。
・・中略・・
招魂祭の日には、守備軍の将兵や、在留日本人も大勢お参りをしていた。
私達中学の生徒も全員、
執銃・帯剣でお参りした。
この時ばかりは、兵隊になったような気分で嬉しかったものである。」
(青島中学第四回生・灰塚一郎。)
日中戦争から太平洋戦争へと、戦火が拡大していく中、
忠魂碑は日本人の戦意高揚に大いに役立ったことだろう。
<Mさんのメールから>
「私の忠魂碑の想い出は、まず登ってゆく道です。
アカシヤの花が咲く頃は、房が道の両側から垂れていて、良い香がします。
その道では下の公園で飛んでいる蝶とは違う、珍しい蝶が出て、
一所懸命坂道を上がったり下ったりで、追いかけます。
良いものをタモで掬い取るように捕獲すると、その日の収獲に満足します。
ところが、ある日一人で上の方に登って行きますと、
左手のアカシヤの木に、黒い長衣がより長く見えるようにぶらさがっています。
手も見え、顔が見えます。
もう息が詰まるほど驚き、一気に坂を駆け下りて事務所に知らせに行きました。
自殺だったそうです。その後は怖くて行けませんでした。」
今、忠魂碑跡はロープウエーの駅になっている。(写真2、3、4)
ロープウエーが動いているのを見たことはないが、
テレビ塔のある太平山頂上までロープが伸びている。
もともと寂しい場所だった。
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