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※写真は、青島日本中学校(現・海洋大学)
詩人・黄瀛は、
青島日本中学校に在学中(第5回生)、
ほとばしるように詩を書き続けた。
彼の詩はしばしば朝日新聞学芸欄に掲載され、
当時最も権威のあった詩誌「日本詩人」に応募した作品は、
新人第一席に選ばれた。
「朝の展望」
見給へ
砲台の上の空がかっきり晴れて
この日曜の朝のいのりの鐘に
幾人も幾人も
ミッションスクールの生徒が列をなして坂を上る
ああ朝は実に気持ちがいい
窓をふいていると
暖かい風が入りこみ部屋をぐるぐるまはる
そしてああ
日曜の朝はいつにない日の流れ
いつにない部屋の静けさ
・・・・
(「日本詩人」(新潮社)1925年)
黄瀛18歳の作品である。
黄瀛は1906年、重慶で生まれた。
父は当時、重慶師範学校校長の、黄沢。
母は日本人、太田喜智。
母・太田喜智は1887年、千葉県八日市場に生まれた。
女子師範学校卒業後、地元の小学校の教員に採用され、
「日清交換教員」に選ばれると躊躇なく中国に赴任した。
黄沢と結婚して、黄瀛と妹・黄寧馨を生む。
1914年(大正3年)黄瀛8歳のとき、黄沢の死により東京に移住する。
黄瀛はめきめきと頭角を現し、小学校を首席で卒業。
しかし、志望した中学校に合格しながら入学を拒否される。
日本はすでに、中国侵略の道を歩み始めていた。
中国人蔑視の思想は急速に広がっていた。
「混血」の悲哀を味わった黄瀛は、
現実の矛盾に苦しみながらも、自己を厳しく見つめ、
やがて詩作の世界へと打ち込んでいく。
東京の私立中学に入学後、青島日本中学校に転校。
彼の詩が詩壇に認められるようになった黄瀛は、
日本の高名な詩人・高村光太郎らのいる日本への留学を決意する。
青島から門司港を経て、神戸港に上陸した黄瀛は、
「混血」の詩を詠んだ。
白いパラソルのかげから
私は美しい神戸のアヒノコを見た
すっきりした姿で
何だか露にぬれた百合の花のやうに
涙ぐましい処女を見た
父が——
母が——
その中に生まれた美しいアヒノコの娘
そのアヒノコの美しさがかなしかつた
あゝ、私はコールテンのヅボンをならし乍ら
その美しい楚々たる姿に
パナマハットの風を追はうとした
彼女の白いパラソルの影で
その美しい眼と唇に
聖い接吻を与へようと
ふと途上のプラタナスの下で
七月の情熱をたかめてしまつた
「七月の情熱」
詩人・小野十三郎は、黄瀛の詩について、
「黄君の詩の魅力は、私にとっては、
同時代の他の詩人には見られなかった新鮮な言葉の行使の仕方であった。
黄君が詩を書くときの言葉の異常な屈折はちょっとまねができないもので、
私はそこに強く牽かれていたのである。」
と書き、
詩人・森谷清も
「みずみずしい色彩と溢れる香りと、
その情景のスケッチの確かさがあって、
一貫して読む側をうっとりとさせる魔法を持っている。」
と述べている。
再び日本の土を踏んだ黄瀛は、神田に開校した文化学院に入学する。
そこには、講師として与謝野晶子がいた。
(つづく)
〇(朝日新聞コラム「黄瀛と『もう一つの祖国』」(王敏)、
図書出版創元社「古書往来」)
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