青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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黄瀛と同年代の詩人に草野心平がいる。

黄瀛が青島日本中学校で詩作に没頭しているとき、

草野心平は広州の嶺南大学(現中山大学)に留学中だった。


黄瀛は草野心平に手紙を出し、二人は意気投合する。


二人は同人誌「銅鑼」を創刊。


「銅鑼」は宮沢賢治にも送られ、

宮沢賢治の詩も掲載されるようになる。



黄瀛が留学のため一足先に日本に赴き、

草野心平もまた排日運動が中国全土に広がる中、帰国する。




東京の黄瀛は、高村光太郎を師と仰ぎ、たびたび訪れていた。

光太郎は黄瀛の顔を彫り、若き土門拳がそれを写真に撮った。



黄瀛、高村光太郎、草野心平、宮沢賢治の輪は、

日中の壁を超えて美しく広がっていった。



しかし、日本と中国の間はのっぴきならぬ状態へと進んでいく。



黄瀛の母は、黄瀛に軍人の道に進むよう勧める。


黄瀛の母は、


「二つの祖国を持った子には父の祖国を守らせ、

日中の相互理解に尽力させるという大義の道を選択させた。」

のである。
(王敏「黄瀛と『二つの祖国』」(朝日新聞コラム)



与謝野晶子は、黄瀛に、

「軍人はだめですよ」

と諭したが、「二つの祖国」を持つ黄瀛には、これしか進む道はなかった。



27年、黄瀛は文化学院を中退し、市谷の陸軍士官学校に入学。



士官学校の卒業旅行で、黄瀛は病床の宮沢賢治を見舞った。


「人力車にのつて小一時間の後、大きな金物屋が彼の家であつた。

父様がこられてこの珍しい軍服を迎へて驚いたやうな表情をされた。」


面会時間はわずか5分間の約束であったが、


「私達は二人の想像している個々の二人を先づ話したやうだ。

五分間がすぐ立つのを気にして私が立とうとしたら、

彼は何度も引きとめてわたしたちは半時間も話したやうだ。

それも詩の話よりも宗教の話が多かつた。」


黄瀛は、賢治の回復を念じながらも、妙に暗い気持ちを感じたという。


黄瀛は、生前の宮沢賢治を見舞った数少ない詩人の一人であった。



黄瀛は、士官学校を卒業すると中国に帰り、

蒋介石が率いる国民政府軍に将校として参加した。


ちなみに、軍隊での彼の仕事は「伝書鳩信号」の担当だったといわれる。




軍務のために詩作から遠ざかりながらも、

黄瀛は、

30年に、第一詩集「景星」を、

34年に、第二詩集「瑞枝」を出版した。


黄瀛の日本詩壇での名声はますます高まり、評価は不動のものとなった。




戦争が終わると、黄瀛は日本人の帰国業務を担当する。


南京の収容所にいた草野心平と再会して救出。

女優李香蘭こと山口淑子を帰国させるのにも骨を折った。




しかし、間もなく人民中国が成立する。



そこで彼を待ち受けていたのは、

長い投獄生活であった。



黄瀛の波乱の人生は続く。
         (つづく)


※写真は、青島日本中学校運動場(現海洋大学)

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