青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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「さよなら、小港の元我が家」



先日、小港一帯の再開発の様子をお知らせしましたが、

あのあたりに1年半ばかり住んでいたことがあります。


平陰路というところです。


1988年5月、私と姉は43年ぶりに青島を訪れました。

そのときの平陰路の写真がありました。

坂の下から撮った写真を現在の写真と並べてみましょう。

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私たち一家が突然、平陰路に引っ越してきたのは、

私が小学校2年生のときでした。


母が結核のため入退院を繰り返していましたから、

おそらく近所との折り合いが悪くなったためでしょう。


このあたりには日本人は少なく、

住まいもあまり立派なものはありませんでした。

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私の家は平陰路14号で、

坂の途中にありました。

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入り口を入るとすぐ右に階段がありました。

1階は土間とお風呂場があるだけで、

生活のほとんどは2階の畳の部屋でした。



夏になると、

裏のベランダから屋根の上に登り、

夕涼みをしながら星空を眺めました。

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小港が坂の下の先に見えました。

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先日、小港一帯の写真を撮りに行ったとき、

その我が家はもう崩壊していました。

入り口だけが辛うじて姿を留めていました。

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話は前後しますが、

私たち一家がここに引っ越しして間もなく、

母は内地へ転地療養し、そのまま帰らぬ人となりました。


そして我が家は一家離散の運命を辿ることになります。


私とすぐ上の兄は群馬県の田舎に預けられ、

姉は青島高女の寄宿舎へ。


長兄は青島で職に就きましたが、

やはり結核に冒されて母の後を追いました。


カメラ好きの長兄が、

この頃の写真を撮って残してくれましたが、

悲しい思い出だけが残る平陰路でした。

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平陰路の私の家の前に本田君の家がありました。

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私が内地へ転校してから2年後、

再び内地から青島に戻ってくると、

同じクラスに本田君がいました。


私の住まいは変わっていましたが、

思い出の小港や三日月浜によく釣りに出かけたものです。

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1988年に初めて知り合った中国人の于さんのアパートが、

やはり小港の恵民路にありました。

写真は88年当時のアパートと、崩壊寸前のアパートです。

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平陰路の元我が家は、

さまざまな思い出を残し、

再開発の波に消えていきました。

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