青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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「植林に情熱を燃やした日本人」



青島郊外の港東という村の小さな丘に、

木を植え続けた一人の日本人がいました。


名前を西川文夫さんといいます。


西川氏は1945年、青島滄口日本小学校5年生のとき、

旧満州に疎開。

そこで敗戦を迎え、苦難の引き揚げを体験しました。

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再び青島を訪れたのは1986年の春。

当時唯一の青島航路・ユートピア丸に乗り、

兄俊夫氏とともに青島の土を踏んだのでした。


そのとき、西川氏の胸に去来したものは何だったのでしょうか。



その後間もなく、大阪市職員を早期退職され、

退職金をもとに青島での植林活動を決意します。



青島市政府の斡旋により、

1992年から港東村の野鶏山に植林を開始します。

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苗木を日本から運び込み、

毎年春から秋にかけて、港東村役場の3階に泊り込んで、

一本一本、木を植え続けました。


兄俊夫氏も、必要な機材を日本から送ってサポートしました。




その後、細田静雄氏、伊藤千枝子氏、

西日本汽船の中山氏などの協力者も現れ、

大阪市の職員のみな様や、大阪の日中友好協会などから

寄付金が集まるようになりました。


もちろん、中国側からも、

港東村の方々や、青島税関の方からの援助も増えてきました。





ところが、

1997年、西川文夫氏は病に倒れます。

病名は膵臓癌。


異郷の地での無理がたたったのでしょうか。



その年の6月、

氏は志半ば、無念のうちにこの世を去りました。

享年62歳。



8月、兄俊夫氏は遺灰を持って港東村を訪れました。


港東村政府は、

盛大なイベントをもって迎え、

故西川文夫氏に


「港東村名誉村民」


の称号を贈り、その功績を称えました。



また、野鶏山に墓碑が建てられ、

兄俊夫氏は弟の遺灰をそこに葬りました。

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人生の終末、

青島での植林活動に情熱をかけた一人の日本人の名を、

私たちは忘れてはなりません。



故西川文夫氏が、わずか5年の間に植えた苗木の総数は

5000本を超え、

野鶏山を緑に染めました。

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知られざる偉人、故西川文夫氏は、

緑に包まれた野鶏山の中腹に、

今、静かに眠っています。

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