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「青島の芸者さん」 ↑色っぽい芸者さん。伊藤さん提供 戦前の青島在住日本人の人口をみてみると、 青島の人口。1940年(昭和15年)4月現在。 市内(四方、滄口を含む) 中国人 50万人 外国人 3万人 ○うち日本人 2万8千6百人 白系ロシア人 8百36人 となっている。 中国人50万人に対して日本人2万8千人というのは、 率にすれば、現在よりかなり高いことがわかる。 1916年(大正4年)末の在留邦人は約300人であった。 それが、1918年には一挙に2万人を超えることになる。 「日本軍政下にあって、市内の諸施設の完備や 鉄道の改善などが進展するにともなって、 官吏職員の増加と、 大正7、8年の経済好況により 諸企業の急速な進出によるものである。」 (「青島日本中学校校史」より) その後の在留邦人の人口の推移は、 1921年(大正9年) 2万4千500人 1924年(同12年) 1万2〜3千人 (※1923年「中国返還」により減少) 1932年(昭和7年)より再び増加傾向に入る。 これは、 「世界恐慌による経済不況となり 海外移住者が増加」したものであった。 (「青島日本中学校校史」より 1937年(昭和12年) 1万6千人 (※この年、日中戦争が始まり、一時邦人の人口は減少する) 1939年( 同14年) 2万6千人 1940年( 同15年) 2万8千6百人 1941年( 同16年) 3万3千人 1944年( 同19年) 約4万人 1945年( 同20年)8月 3万6千人 ※この間、中国人は45万人から57万人に増加している。 一方、在留邦人の職業別の統計をみてみると、 1939年(昭和14年)9月現在(四方、滄口を含む)。 日本人 2万6千7百人 職業別内訳 一位、会社、銀行員 3千403人 ○二位、芸酌婦、仲居 911人 三位 電気その他工業 701人 四位 鉄道従業者 462人 となっている。 (旧JTB発行「青島」より) 芸者、酌婦が多いのが目立つ。 以前にも紹介したが、 青島には「新町」という歓楽街が存在した。 ↑現在もカタカナの看板が残っている。(カフェ・ネコ) <中野町(聊城路)は日本人商店街の中心地で、 隣に新町という遊郭街があって夜遅くまで賑やかであった。 スターというダンスホールや映画の電気館もあった。(中略) 新町への出入り口も人出が多いので、 軍艦の入港ともなれば水兵さんで一段と賑やかとなった。 時には外国艦船の入港が重なると酒の上での争いもしばしばあり、 多くの話題を残した。> (青島日本中学第13回生・松崎強) ↑聊城路(旧中野町)付近図。橋本氏作成、提供 私の同級生の西島君の家も、 芸者の置屋で、広い座敷があった。 今回、これらの芸者さんの写真を提供してくださった 伊藤さんの祖母さんは髪結いさんで、 芸者の置屋まで出張して芸者さんの髪を結ってあげたそうである。 戦前の成金さんや軍人さんのお遊びといえば、 「芸者遊び」だったのだろう。 時代が移り、現在の青島では、 日本人相手のクラブが林立している。 |
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2007年11月30日
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