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「脱走した日本兵」 ※写真は新旧青島風景。本文記事とは関係ありません。 1945年11月、 私は北京の郊外で抑留生活を送っていた。 抑留といっても、 建物は華北電電の社宅で、 その玄関付近の大広間に、 我々電気通信学院の生徒が寝起きしていたのである。 敗戦から一ヶ月ぐらいして、 同居家族のいない独身男性は、 全員北京城内から退去するよう命令が出た。 電気通信学院の生徒はトラックに乗って学生寮を後にし、 城壁の門をくぐって西へ向かった。 40分ほど走ると、平原の中に日本人専用の大団地が現れた。 華北交通や郵政などの社員住宅が建ち並び、 少し離れた小高い草原の中に、 3階建ての華北電電の社宅があった。 そこは見渡す限りの大平原の中であった。 北と西側には、遠く山々が連なっているのが見えた。 そして、この大団地を見下ろすように、 日本軍の戦車部隊が駐屯していた。 日本軍はすでに武装解除され、 国民政府軍の下働きに駆り出されていた。 日中戦争は終わったが、 終わると同時に国民政府軍と共産軍との戦いが始まっていた。 この日本人団地の治安は守られていたが、 夜になると、山のほうでは激しい銃撃戦が繰り返されていた。 毎晩、子守唄のように機関銃を撃ち合う音を聞いた。 華北電電の社宅は肩の高さぐらいの塀に囲まれ、 広い庭があった。 我々独身者が大量に入ってきたためトイレが足りなくなり、 庭に溝を掘って板を渡し、臨時のトイレにした。 社宅の建物に沿ってテントが張られ、 その中に簡易炊事場が作られた。 三度の食事は寮母さんが作ってくれた。 食事の後片付けや食器洗いは、交代制の当番がすることになった。 塀の外には、マントウ売りの中国人がやってきた。 現金を持たされなかった我々は、 物々交換でマントウを手に入れ空腹を満たした。 教官に見つかると往復ピンタを食らったが、 私も一度だけハーモニカを持ち出してマントウ二個と交換した。 昼間は何もすることがなかった。 生徒の中の、年上で体格のいい者は、 部隊の雑用に狩り出されていたが、 私のように体の小さい者はただ近くを歩き回るだけだった。 そのとき私は13歳。 時折、教官が相撲大会などを開いてくれたが、 体が小さい上に、日に日に体力も落ちて、 相撲に勝とうという気力もなかった。 平穏ではあったが無為な毎日であった。 北京の11月は寒い。 その日の夜は、私ともう一人が炊事当番であった。 寮母さんが、 「小豆を煮た汁が残っているから、 それでお汁粉を作ってあげるわね」 と言ってくれたので、 急いで食器を洗って待っていた。 パーン、 パーン、 パーン。 突然、銃声が3発鳴り、 ヒュル、ヒュル、ヒュル、 弾丸が風を切る不気味な音がテントの上をかすめた。 ぶすっ、 ぶすっ、 レンガの壁に弾丸が弾けた。 私は地べたに四つん這いになっていた。 しばらく震えが止まらなかった。 乱れた足音が遠ざかり、あたりはまた静寂を取り戻した。 間もなく消灯時間になり、床についた途端、 教官の怒鳴り声が部屋中に響いた。 「直ちに起床! そのまま庭に出ろ!」 寝巻きや下着のまま、 寒さに体を屈めながらぞろぞろと外へ出た。 庭に集まった大人たちの話では、 日本軍の脱走兵がこの社宅内に逃げ込んだらしい。 寮生全員が庭に揃うと、 国民政府軍の兵士が一部屋一部屋ドアを開けて調べはじめた。 脱走兵は二人で、 中国人の民家に押し入り、変装用の中国服を所望したところ、 騒がれて国民政府軍の兵士に追われたということだった。 敗戦後、日本軍兵士の脱走は各地で相次ぎ、 共産軍に走って重用されているという噂は、 子供の私たちの間にも知られていた。 農家の3男、4男では、日本に帰っても厄介者になるだけである。 軍規の乱れた国民政府軍のもとで働かされるのは潔しとしない。 共産軍のもとで、もう一働きした方がましだ、 という考えが生じても不思議ではない。 社宅の夫婦者の部屋に潜んでいた脱走兵が見つかり、 玄関から連行されていく後姿が見えた。 一人は肩から腕にかけて厚い包帯が巻かれていた。 かくまった日本人が手当てをしたのだろう。 真っ白な包帯が電灯の明かりでまぶしかった。 「誰だ、あんな奴らをかくまっていたのは? みんなが迷惑するじゃないか!」 寒空に、吐き捨てるような怒号が飛んだ。 その声は、 日本人社会の崩壊を告げる、 大人からの冷酷な一撃であった。 それから旬日を経ずして、 電気通信学院の生徒に、 日本引き揚げの命令が下った。
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2007年12月24日
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