青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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久留米第18師団

日独青島戦争の攻防(二)
     
   「久留米第18師団」




「8月11日に対独宣戦布告」という閣議決定を延期し、

最後通牒方式に変更した政府は、

1914年8月15日「対独最後通牒」を発布した。


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しかし、日本陸軍参謀本部はすでに着々と戦争準備に入っていた。


8月3日、青島攻略作戦のための兵力数をすでに策定済みとし、

作戦計画の立案もその日に着手、翌日には第一部案ができあがっていた。


8月8日に久留米第18師団編成案の作成に着手、

10日にこれを完成させている。



久留米第18師団長の神尾光臣中将は、

陸軍将官きっての中国通として知られ、

日清、日露の戦いにも参加している実戦豊富な指揮官である。


また、参謀長にはドイツ留学経験のある山梨半造少将を当て、

中国通とドイツ通という両将校の起用によって、

絶妙の作戦指揮系統が編成された。



青島攻略のために編成された部隊は、

久留米第18師団(二旅団四連隊)を基幹に、

山砲中隊、野戦重砲兵第三連隊、

独立攻城重砲兵第一、二、三大隊などを加え、

いわゆる独立混成師団といわれるものである。



総員5万1千700人。

最前線の歩工兵数は約1万4千400人であった。



一方、ドイツ守備軍の兵員数はほぼ5千人。


正確な記録はないが、

参謀本部作成の「日独戦史」によれば、

兵員数4920名。

その内訳は、

ドイツ海軍歩兵1個大隊

同砲兵1個大隊

在北京駐屯軍のうち160名。

他に中国在住予備軍人や国民兵など、

精鋭部隊とは言えない寄せ集めの軍隊であった。



別の資料では、

戦後の捕虜数が4千680名、

戦病死者数は910名、

合計すると5千599名になる。



いずれにしても、日本軍5万人に対して、

ドイツ軍は5千人で戦うことになったのである。



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もう一つ重要なのは銃砲類の種類と数である。

日本軍は重砲96、軽砲42、合計138門を投入。

ドイツ軍と数の上ではあまり差はなかったが、

日本は最初からこの戦争を、

「新式兵器の実験場」として位置づけていたから、

まだ試作段階の野砲や迫撃砲などを含めて、

新型銃砲を惜しげもなく投入した。


第二次大戦で活躍した三八式歩兵銃も、

この戦争ではじめて実戦に使われたのである。



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しかしなお神尾師団長は、

旅順戦の経験から、

「頑丈に覆われた堡塁に対しては、

大口径の砲弾を大量に撃ち込む以外にない」

と上申し、

さらに最新式の大口径榴弾砲と砲兵部隊が追加動員された。


日本軍は戦闘開始後も、

次から次へと使い切れないほどの武器弾薬を現地に送り込んだから、

質も量もドイツ軍を圧倒していた。


はじめから勝敗の決まっていた戦争である。



さて、青島攻略戦に動員された部隊は、

対独宣戦布告の翌日、8月24日には編制を終え、

乗船地の長崎に集結した。



8月28日、折りしも台風が通過する中、

先発隊として山田第24混成旅団(久留米)が、長崎港を出航する。

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※茨城キリスト教大学教授斉藤聖二著「日独青島戦争の戦闘経緯」より

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