青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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原田先生との2年間

第4章、原田先生との2年間



昭和17年4月、2国での始業式の日、

我われ5年1組の担任が原田義三先生であると発表された時、

クラスの全員がシーンとなって震え上がった。

学校で一番恐いと怖れられている先生である。

先生に対する級友の一人の印象は、

「今でも忘れられないのは、

休み時間に蹴球(サッカー)をして遊んでいた時、

体の大きい松宮君(朝鮮人で年齢が二つ上、

当時、外地の小中学校にはそういう子供がクラスに2、3人はいた)

がドリブルして目の前に突っ込んで来た。

僕は運動はうまくないし、弾き飛ばされそうだったので思わず身を引いた。

とたんに“逃げるな”とどなられた。

たまたま運動場に出ていた原田先生に見られたんだ。

担任された2年間は緊張の連続だった」


当時、青島の国民学校では運動というとサッカーだった。

朝、授業が始まる前に運動場に出て、

10人ぐらいになるとジャンケンして

勝ち組と負け組に分かれプレーボールとなる。

後から来た者も二人になったらジャンケンして加わる。

最後は30人ぐらいでやっていた。

昼休み時間もそうで、体操の時間ももちろんやった。

南米やヨーロッパの子供たちと同じくらい夢中になっていた。

戦後、日本に引き揚げた時、サッカーをしている学校はほとんどなかったが、

青島では中国人が広場や道路でもやっていたので、その影響があったと思う。


原田先生が担任になって、

ずっと緊張していたというのはクラス全員が同感である。

我われの教室は例えて言えば、

プロ野球で優勝を間近にした球団のベンチのようだった。

それまで口をぽかんと開けていたような選手たちも、

しっかり眼を開いて戦況をみつめている。

その後ろで監督が一投一打をにらみつけ、

ベンチ内のピンと張りつめた空気がテレビ画面にも映し出される。


私は4年生までは全く勉強しなかった。

国語の時間には必ず最初に書き取りのテストがあった。

前回に習った漢字を十問書かされる。

10点満点で私はたいてい2、3点だった。

家で復習していないので覚えられないのである。

そういうサボリは私だけではなかったので成績はまあ中くらいだったが、

今後は絶対に許されない。

出来るのにしなかったら、言葉で叱られるだけでなく、

立たされて頬に平手のピンタが飛んでくる。

私はそれが恐さに初めて家で勉強するようになった。

ぐーたらだった日常の態度もシャンとしてきて、おかげで成績も良くなった。


原田先生は当時30歳前後。

中肉中背できりりと引き締まった肉体、

鼻高く色白で映画俳優のようにハンサムだった。

なぜか独身で父兄の間で話題になったことも聞いた。

怒る時には、色が白いだけに顔に青筋がはっきりと浮き出た。

教える時も怒る時も、私達を大きな目で正面から見据えて話した。



イメージ 1


昭和17年というと

太平洋戦争ではまだ日本軍が優位を保っているように見えた。

しかし6月にはミッドウェー海戦で主力空母を失い、

制海権と制空権を奪われている。

その事実は知らされなかったが、新聞にはこんな記事が出た。


“一億総銃とれ”と竹槍訓練開始 実践に即応せる武技練成

国防武術の練成について翼賛会本部に陸軍、海軍、厚生各省、

陸軍戸山学校、海軍砲術学校、武徳会、体育会、翼賛会の関係者が集まり、

実践に即応せる武技練成に関する協議会を開いたが席上、

陸軍兵務課山本中佐は、


「全国民は銃剣術等の武技をラジオ体操のごとく普及し、

敵の落下傘兵ぐらいは竹槍で突き伏せる覚悟が必要だ」と力説、

(以下略 12月5日 朝日新聞)


その年の冬休みは学校で朝早くから“米英撃滅”を合言葉に

剣道の寒稽古が行われた。

これが結構面白くて苦にならなかった。

私は体が大きな分だけ有利で、強かったからである。


歴史と修身(戦後は道徳)の時間には、

原田先生は楠正成・正行親子を天皇に忠義の士として

情熱を込めて褒め称えた。


「正成は後醍醐天皇のため死を覚悟して出陣するに際し、

桜井の駅で我が子の正行を呼び、

『お前はこの度は故郷に帰り、私が亡くなった後も天皇をお護りせよ』

と厳命して別れた。

君達も正成親子のようになれ」

「いいか、

君たちの両親、祖父母、先祖の人たちが受けてきた天皇のご恩は

山よりも大きく重い。

それに比べたら、

君たちの命は鴻毛(こうもう=オオトリの毛)よりも軽いんだ。

だから天皇のために命を捨ててご恩返しをしなければならない」


と「七生報告」の精神を叩き込まれた。

一方で敵方の足利尊氏等は、憎みても余りある不忠の臣と教えられた。

機会あるごとに同じようなことを聞かされたので、

“そうか、僕たちの命というのは、そんなに軽いものなのか”

クラス全員が心からそう信じたのである。


こういう授業は原田先生だけではなかった。

太平洋戦争直前の昭和16年7月に

文部省から先生達に『臣民の道』という指導解説書が出されている。

当時の新聞によると、

「これは昭和12年刊行の『国体の本義』姉妹編である。

全国の国民学校、中学校、高等専門学校に洩れなく配布するが、

国民学校では先ずこの一冊を中心に教員の輪読会を行って、

その内容を血となし肉となし、直接授業に織り込むことは当然ながら、

祝祭日あるいは朝礼等厳粛な機会にその一節一句を敷衍して

小国民の指導に努めるはずである。

(中略)皇国臣民の道は国体に淵源し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るにある。

それは抽象的軌範にあらずして歴史的なる日常実践の道であり、

国民のあらゆる生活、活動はすべてこれ、

ひとえに皇基を振起し奉ることに帰するのである。

(中略)ここにおいて自我功利の思想を排し、

国家奉仕を第一義とする皇国臣民の道を昂揚、実践することこそ、

当面の急務であると言わねばならぬ」(7月23日 朝日新聞)


要するに「国民は自分のことは考えずに、あらゆる生活、行動の中で、

ただひたすら天皇に尽くしなさい」ということである。



イメージ 2


原田先生はこの文部省の指導書を信じてその通りに、

時には熱意が溢れてそれ以上に実行した。

原田先生が教職についた頃から、

こういう忠君愛国の軍国主義・精神主義は教育界だけでなく

日本社会全体を覆っていたのである。


(この項つづく)

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