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第5章 怒られたこと 原田先生との2年間の学校生活中に怒られたことで、 今でもはっきり覚えている出来事が二つある。 一つは自習時間のとき、 先生の都合で突然、教室で自習するということになった。 先生がいなくなって初めのうちはおとなしく本を開いて机に向かっていた。 しかし10分も過ぎるとあちこちに4、5人の塊が出来て、 その間の往来も激しくなってくる。 教壇に上がってもの真似をする者も出てくる。 それに大笑いして手を叩く。廊下に出て行く者もいる。 教室全体がわーんと鳴り響くような状態になった。 そこへ原田先生が血相を変えて帰ってきた。 「自習をしろといったのにお前たちは何をやっていた。 下の階まで聞こえてきたぞ。騒いだ者は何をしたか前に出てきて言え」 出て行って自白した者はビンタである。 私は机に坐っていて、いつ出て行こうか迷っていた。 教室内をあちこち動き回った。廊下に出掛かったこともある。 どれを自白しようかと考えていた。 その時、先に出て行ってビンタをもらった友人が 「武藤君も廊下に出ていました」と言ったのだ。 「武藤、出て来い。お前は・・・」 あとは何も言わずに先生は、スリッパを脱いで私の頭を力いっぱい叩いた。 ビンタよりも痛くて重い屈辱的な罰である。 言われる前に早く正直に出て行かなかったことが卑怯とみなされ、 罪が加算されたと自覚できて恥ずかしかった。 余談ではあるがこの時、私のことを言ったのは朝鮮人の友達である。 実は4年生の時にも朝鮮人の女の子に悪事をばらされたことがある。 私は体が大きかったので教室の席は一番後ろだった。 答案用紙などを集める時は私が自分の列を集めて先生のところ持っていく。 前記した国語の書き取り試験の時、 私は余りにも出来が悪いので自分の答案用紙は集めないで捨ててしまった。 それを何度かやってばらされたのである。悪いのは私である。 しかし日本人の友達なら普通、気がつかないし、 また見て見ぬふりをすることが多い。 朝鮮の人達は“正義のため”だったら 親しい間でも容赦しないところがあるようで、 子供心にも違いを感じたものである。 しかし、これは“差別”ではなかった。 周りが全部中国人の環境で暮らしていると、 日本人と違うことを毎日感じている。 国が違うから当然だと思っている。 朝鮮人は日本語の発音が違う。 それも当然で、育った環境が違うからだ、 ということは子供にもはっきり分かっているので、 差別する気持ちには全くならなかった。 満州でも中国でもクラスには必ず朝鮮人の子が2、3人いたが、 たいてい年が一つか二つ上で、体も大きく知識もあった。 先生に言われなくても、軽蔑するどころではなかった。 特にセックスについての知識は両親の夜の営みなど、 私達が全く知らないショッキングなことを教えてくれたものである。 もう一つ怒られて覚えているのは、自分のしたことながら実に奇妙な出来事だった。 6年になると学校を代表して クラスや学年全体が公的な行事に出ることがある。 この日の以前にも、放課後、6年1組が軍人の慰霊祭に出席したことがある。 その時は往復歩くのに1時間、 式が立ったままで1時間もあったので、かなりきつかった記憶があった。 ある日、私は習字の道具を持ってくるのを忘れた。 幸か不幸か午後の5時間目の授業だったので、 昼休み時間に家に取りに帰った。 往復急いで50分はかかるから当然、昼食は抜きである。 6時間目は体操だったから倒れそうになるほど腹ペコだった。 やっと終わりのベルが鳴って集合、そこで原田先生は、 「これから慰霊祭に出席する。服を着替えてすぐ玄関に集合すること」 それを聞いた時、私は何故か困ったとも何とも思わなかった。 “僕は昼食を食べていない。だからあんなにきつい式には行かれない。 これから弁当を食べるんだ” そう考えて教室に一人残り、悠々と食べ始めた。 心配した友達が「もう皆んな集まってるぞ、早く来いよ」 と呼びに来ても平気である。 「ウン俺いいんだ」。その時は本当にそう思っていた。 しかしそれでいいわけはない。 「先生がすぐ出て来いって」 とまた友達が呼びに来たのでしぶしぶ出て行くと、 校旗を先頭に全員が整列していた。 「武藤、お前は何をしていたんだ」 額に青筋を立てた原田先生に睨みつけられ、往復ビンタを浴びた。 それでやった自分がとんでもない事をしたのに気がついた。 「ここで皆が帰ってくるまで立っておれ!」 運動場に2時間以上立っていた。 授業が終わった時刻なので、よそのクラスの児童がぞろぞろ帰っていく。 初めから一部始終を見た者もいるが、 何で立っているのか、けげんそうに眺めていく者もいる。 私は何気ないふうに “ただ立ちたいから、ここに立っているんだ”というような顔をしていた。 6年1組は薄暗くなりかけた頃戻ってきた。原田先生は、 「もういい。帰っていいぞ」 もう一度怒られるかと思っていたのに、その声は意外と優しかった。 ずっと私のことが気になっていたような感じだった。 私は急に晴ればれした気持ちになった。 皆に囲まれて教室に帰る途中、 「皆んな疲れたろう。オレ得しちゃったよ。ただ突っ立ってただけだもんな」 負け惜しみを笑って言うだけの余裕も出来ていた。 その時、なんで私がそんなバカなことをしたのか、 社会人になってから分かった。 「短絡反応」である。 何かしたいという気持ち、欲望が昂じてくると筋道が考えられなくなって、 いきなり実行してしまう。 つまり頭の中でショートする。 今「キレル」と言われる状態に似ている。 精神の発達が未熟な者に起こることがある。 それが殺人や窃盗事件を引き起こすこともあって、 新聞にも短絡反応の解説が載っていた。 原田先生も子供たちのそういう心理が分かっていたようだ。 反抗心でやった、というような疑いは全くかけられなかった。 クラス全員の原田先生に対する印象は徐々に変わっていった。 ビンタは痛かったが赤くなる程度で、後あと長引くことはなかった。 いいことはいい、悪いことは悪いで納得できた。 正直にして、サボったりしなければ怒られることはなく、分かってもらえる。 それに体操の時間は一緒になってやってくれる。 サッカーでは私はゴールキーパーだった。 先生もPKすることがあった。 猛速球を手で叩き落すとじーんと痺れるほどだったが、 それでも自信がついて嬉しかった。 戦争中だが青島ではサッカーをずっとやっていた。 キーパーをしていてコーナーキックでカーブ球を蹴られ、 直接ゴールされたことがある。 これも朝鮮人の友達だったが、 小学生としてはかなりレベルが高かったと思う。 放課後、100メートル走で先生達が記録をとっているのを見たことがある。 原田先生は11秒5で凄く速かった。 息をしないで走り抜く走法は格好よかった。 いつの間にかそういう先生に親しみを感じ、誇りに思うようになっていた。 2国には他にもスポーツマンの先生がいた。 6年女子の担任をしていた相川先生は体操が得意だったが、 時々5階建ての校舎の屋上で、 コンクリートの手すりの外側に両手を掛けて逆立ちをしていた。 命綱もネットもなしである。 下から見上げてヒヤヒヤしたし、 どうしてそんな危険なことをするのか分からなかった。 教え子達に勇気を示そうとしたのか、 あるいは自分で精神集中をするためだったのだろうか。 ↑99年訪問の旧第2小学校。 この屋上の外側のヘリに手を掛けて相川先生が逆立ちをした。 運動会では残念だったことがある。 6年生の騎馬戦は花形の種目だった。 3人で馬をつくってそれに騎手が乗る。 体が大きくて運動神経もあるほうだった私は、 号令を掛けて赤組全体の指揮を取る大将の騎手になった。 何度か練習をしたが、最後のリハーサルで今までにない作戦を実行した。 戦闘開始と同時に私は体格の小さい騎手の方に向かった。 体力の差で簡単に潰すことが出来る。 かなりの敵をやっつけてから大きい騎馬に勝負を挑み、それにも勝った。 戦果はかつてないほどの大勝利だった。 「そういう戦法もあるね」と先生方はケナしはしなかった。 実はこんな作戦を取ったのには、原田先生の訓話の影響もあった。 「戦争に行ったら、一機でも多くの敵機を落とし、一兵でも多くの敵兵を殺せ。 そのために体を鍛え、腕を磨け」 しかし勝った私の騎馬仲間は、 どうも自分たちが弱い者いじめをしたようで後味が悪かった。 「この次の本番では、初めは大きな敵にぶつかって、 それをやっつけてから小さい方に回ろう」 しかし残念ながらこの次はなかった。 運動会当日は午後から雨になり、以後は中止になってしまったのだ。 (この項つづく)
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2008年02月29日
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