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怒られたこと(二) 5年と6年、11、2歳の2年間に 私達が原田先生から受けた教育の集大成ともいえるものがある。 卒業記念の文集だ。私達の座右の銘とその注釈、先生の「送る言葉」である。 座右の銘 初志貫徹 金山重光 初志貫徹 藤沢淳 信は力なり 佐藤 康 至誠報国 森本和伸 必勝の信念 貴田利孝 必勝 緒方良一 捨我報国 佐々木光 一死報国 中村喜一郎 御盾 薮本和男 実行 山本茂人 雄飛五大州 峰村正威 沈勇果断 高見義和 断じて行えば鬼神も之を避く 柳田昌昭 尽忠報国 松波信光 念々之忠 荒砥宗興 豪胆 関口次郎 断行必死 “若い血潮の予科練”自分は予科練が希望だ。大空に征き征き (原文のまま)米英を撃滅する 岡本彰夫 大和魂 父祖の血を受け継いだ自分である。兄も予科練を希望している。 自分も希望して兄と二人で編隊を組んで。 空閑国靖 断じて行えば鬼神もこれを避く 私は軍神横山少佐の信条を私の信条として 航空兵になりたいと思っている。 登坂良則 七生報国 陸軍の兵隊になる 陳 俊雄 七生報国 倒れても倒れてもなおやまず。生まれ変わり生き返って 大君の御盾となる自分は、ひたすら海軍軍人を希望する。 小栗 茂 貫徹 何のその、岩をも通す桑の弓 自分は何事もでもやり抜く人に なりたい。日華のために尽くす人になる。 沃川 栄 大君の御盾とならん 大和男子と生まれた誇りが、自分の心を湧き立たせる。 海軍航空隊に入るのが希望だ。 武藤直大 皇運扶翼 天皇の大命のままに生き、大命のままに死ぬ人になる。 田上 徹 七生報国 七度人間に生まれて朝敵を滅ぼす。烈々たる忠烈の赤誠、 大日本帝国海軍軍人となり、楠公の心に生きる。 小川一成 反省 昔の人は一日に3度は反省せよと言っている。自分は今日の生活を 反省し、明日は再び同じような悪い行いをしない人になりたい。 中野良男 断じて行えば鬼神も之を避く。山本元帥の国葬に参列した私は、今まで二度と ない気持ちを味わった。涙が自然に出るのである。私は真珠湾の底深く 水く屍と散って行かれた横山少佐のこの言葉を信条として生き抜く。中村八大 至誠報国 まごころの人になる。戦時下の内地で中等教育を受けて、 ますます日本精神を鍛え上げようと思っている。 宗像 健 海の開拓者になるのが自分の希望だ。無限の海の宝庫を開いていく。宮崎 汎 ↑青島海軍博物館 送る言葉 原田義三 “戦いの中の子供”皆の生まれた昭和6年は、大東亜の夜明けであり満州事変の起こった年だった。それから今日まで、みんなは戦う日本の子供として育った。日の国、日の民の誇りもて、唯征きに征く兵の姿を目の当たりに見、聞きして育ったのだ。それだけに私は今までにない立派な覚悟の出来たみんなを信じている。私が心の糧としている歌を挙げ、みんなの門出を心から祝福する。 天皇に仕えまつれと我を生みし 我がたらちねぞ尊かりける ますらをが思いこめにし一筋は 七生かふとも何たわむべき 千万の軍なりとも言挙げせず 取りて来ぬべき男とぞ思う いのちより名こそ惜しけれ武士の 道にかふべき道しなければ 青雲のむかふす極すめろぎの 御陵威かがやく御代になしてむ 原田先生の言葉を改めて読むと、 私たちにある「覚悟」をつけさせることを教育の一つの目標にしていたと思われる。 座右の銘でみる限り、その目的は達せられたのではないだろうか。 座右の銘では、クラスの全員が国のためを思い、戦死を覚悟している。 しかし、私達は自分の死を深刻には考えていなかった。 そのために悩み、もがき苦しむことがあることなど想像もできなかった。 青島でも死んだ人は何度か見たことがある。 冬の寒い朝に登校する途中、 学校の塀にそった歩道に中国人の行き倒れがあった。 気味が悪かったが、そこに行き着くまでの死者の苦しみなど 考えたことはなかった。 12歳の軍国少年にとって戦死のイメージは、 戦争映画の「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘機隊」で観たように、 空中戦で撃たれたり、 体当たり攻撃で壮烈な最期を遂げるというような 華やかで格好のいいものだった。 中学3年から予科練に行けば、 エスカレーター式にそうなっていくという程度にしか考えていなかった。 それは子供の考えの浅さもあるが、 自分の命は天皇の大恩に比べたら、鴻毛のように、吹けば飛ぶように軽い、 と繰り返し教えられてきた教育の“成果”でもあるだろう。 今の北朝鮮やアラブの自爆テロの子供達と、 全く変わらない心理状態にあった。 しかし、幸いなことにそこまでいかないで、日本の戦争は終わった。 ↑青島海軍博物館 日本に帰国してからの進路はまちまちだが、 普通の小学校のクラスとはちょっと変わっていると思う。 「雄飛五大州」と書いた峰村君は大学を出るとすぐブラジルに渡った。 そこに生活の本拠を築き、青島でも事業をしていた。 ブラジルに行った者は他にも二人いる。 「断行必死」の岡本君は中国語が堪能だったが、 中年を過ぎてからエジプトに住みついて地方の王様と親しくなり、 これから観光事業をするようなことを聞いた。 「海の開拓者」の宮崎君は、水産学校からその道に進んだ。 薮本君はプロ野球の大映スターズの投手。 他に京都大学と九州大学の教授が二人。 新聞記者が私を含めて三人。 その中の一人、読売新聞の小川君は、 後にJリーグのサッカーチームの会社の社長になった。 青島でサッカーをやっていなければ、そんな転進はしなかっただろう。 公務員や商社、メーカーの海外駐在員もいれば、 布団屋の親父さんや写真館の主人になった者もいる。 40人ぐらいのクラスにしては多士済々でバラエティに富んでいる。 私たち世代は 学校では高校・大学でも “個性を伸ばせ”などという言葉は一度も聞かなかった。 それでもこんな結果になったのは、原田先生の影響が大きい気がする。
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