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第6章 ピアノの中村八大君 ↑戦後の歌謡界を席巻した中村八大氏(写真=相子さん提供) 「断じて行えば」と書いた中村君はジャズピアニストになった。 亡くなる前、同窓会で一緒に飲んだ時、 彼は「青島ではイジメられたなぁ」と懐かしがっていた。 イジメた覚えはないが、そう言われると思い当たることが一つあった。 これも原田先生の思い出と重なってくる。 八大君と私は学校から家に帰る方向が一緒だった。 土曜日の授業は午前中の4時間だから弁当は持って来ないのが普通だ。 しかし八大君は帰り道に外国人のピアノ教師のレッスンがあるから、 学校で弁当を食べる。 当時、帰りの方向が同じ者は班をつくって一緒に帰らなければならなかった。 班のメンバーは5、6人。それが校門の前で腹を空かして待っている。 私は班長だった。 「遅いなあ、何やってんだ。ちょっとみて来いよ」。 それを二度ぐらいやったと思う。すると別の友達がやってきた。 「原田先生が職員室に来いって」 使いに出した二人と班長の私が何のことか行ってみると、 「お前たちは大勢で何故、中村にそんなことをした」 えっと驚いた。 こちらは「早くしろ」と催促しただけで、悪いことをした覚えは全くない。 しかし周りからはいじめていると見えたようで、 それで職員室の先生に知らせが入ったのだ。 私は言い訳を考えたが、身に覚えのないことだから、とっさには出てこない。 「僕達は弁当を食べていないので腹が空いていたから」 では余りに子供っぽ過ぎると思った。 そこで私は集団行動の必要性など、 戦時中の国民の心得みたいなことをくどくどと述べてしまった。 これは逃げ口上にしか聞こえなかったのだろう。 そこでビンタをもらったかどうかは覚えていない。 しかし怒られて、しばらく三人とも職員室に立たされた。 許されて帰る道で、 「ただ、腹が空いたからとだけ言ったほうが良かったんだよな」と話し合った。 弁当にまつわる私の二度目の失敗だった。 立たされた仲間にはブラジルに行った峰村君もいた。 八大君とは私の名前が直大で似ていることもあり、 特に親しいというほどではないが、お互いに印象に残る存在ではあった。 ↑ピアノレッスン中の中村八大氏(写真=相子さん提供) 戦後引き揚げて来て最初に会ったのは八大君のお父さんの方である。 八大君がビッグ・フォー時代のジャズ演奏から、 作曲活動に重点を移していた頃だった。 八大君のお父さんが新聞社に来られた。 各社の文化部や芸能関係の記者達に 「息子を宜しくお願いします」と挨拶回りしていたのだ。 当時私は週刊サンケイの特集デスクをしていた。 挨拶回りなどはマネジャーに任せるのが普通だが、 明治生まれのお父さんは律儀に自分で回って挨拶していた。 お父さんは青島時代は第一国民学校の校長先生だった。 一国は下町的なところがあり、 外国人のピアノの先生は山の手の二国の方に住んでいたので、 一家で引っ越してきたのだ。 私は二国だから中村先生に教わったことはなかったが懐かしく、 お相手をしながら自分の父親を思い出していた。 ↑中村校長ご一家(写真=相子さん提供) 私が定年になる頃、八大君は日本全国の地方の小学校を回って、 子供に音楽の楽しさを分かってもらう活動をメインにしていた。 教育者の父親の血を受け継いでいたようである。 彼のことを本にしようと相談したことがある。 引き受けてくれて話を聞き始めたのだが、 私が日本のジャズやポップスの歴史など基本的なことを知らなくて、 勉強し直さなければならないことが自分で分かった。 しばらく中断しているうちに彼は亡くなってしまった。 八大君から聞いた話の中で思い出すことが二つある。 彼は大学を出てすぐジャズ界のスターになったが、 自分で「やっと父親に孝行が出来た」と思ったのは 大ヒット曲を飛ばしたことではなく、 「作曲した曲が高校野球の甲子園大会の入場式テーマソングになった時、 喜んでくれた」 ということ。 ↑坂本九さんと(写真=相子さん提供) もう一つはかつて社会現象にもなった、 ロック等の音楽を聴いて女の子達が失神することについてである。 実は私自身がそれを経験して、 どうしてそういう生理現象が起きるのか興味があった。 私の経験は中野サンプラザで 「ニューオーリンズ・ジャズバンド・オールドマスターズ」の演奏を聴いた時である。 デキシーランド・ジャズばかりでちょっと退屈してうとうと状態の時、 突然、脳の中で一本の神経がムズムズしてきた。 アルトサックスが独奏していて、そのメロディーが私の神経を微妙に撫ぜている。 そのうちにアアッと驚いた。 席に座っていて身をよじるほどのセックスの絶頂間に襲われた。 セックスなら数秒で終わる恍惚の状態が、 演奏に導かれて一分間近くも続いた。 これだったんだ、と思った。 女の子達が失神するのも当然の素晴らしい快感だった。 曲は「ベーズン・ストリート・ブルース」だったので早速そのCDを買った。 家で聴いてみたが残念ながら再びあの絶頂感は起こらなかった。 そのことを八大君に聞いた。 「それが音楽を演奏する者の憧れなんだよ。 僕達もお客さんにそこまで楽しんでもらいたい。 なかなか出来ないから、自分がその状態になれば出来るんじゃないかとも思う。 それで麻薬なんかに手を出す者もいるんだ」 その麻薬の経験は全然別のことで私にもある。 胆のう炎の発作を起こして普通の痛み止めでは効かないため、 病院でモルヒネを注射された。 なぜか楽しい気分になってきた。 幻影が見えて真っ暗闇の中、全身に銀粉を塗ったストリッパーが踊り狂う。 そこへ正義の味方がやってきてストリッパーを追い払う。 すると痛みが徐々に消えていくのである。 二回発作があって同じようにモルヒネを注射されたが、経過は似ていた。 しかし、麻薬による楽しい気分は、 あの音楽会の時のしびれるほどの絶頂感に遥かに及ばなかった。 麻薬に頼るミュージシャンも満足出来ないだろう。 それでも事件を繰り返す者が絶えないことを哀れに感じた。 私は八大君のリサイタルを一度だけ聴いた。 恐らく公式の場での彼の人生最初のリサイタルだったと思う。 二国を卒業、青島中学に入学して間もないある日、全校生徒が講堂に集められた。 壇上に立った音楽の黒澤先生が厳かに言った。 「この春、我が校にピアノの天才少年、中村八大君が入学した。 今も有名な先生について習っているが、 滅多にない機会だからここで諸君にも聴いてもらう」 八大君は先ずベートーベンの「月光の曲」を弾いた。 しかし堅苦しいのはそれだけで、あとは軍歌をメドレーで弾きまくった。 恐らく自分で編曲したものだろう。 軽快にまた荘重に、派手なアクションも交えて弾きまくり約一時間、 生徒を退屈させずにうっとりさせた。 この頃から既にエンタテインメントの才能があったようだ。 ↑故中村八大氏一周忌(羊会)=相子さん提供 |
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