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第8章 ミニ軍隊の中学校 ↑旧青島日本中学校(現・海洋大学) 昭和19年4月、中学に入った。 中学ではあまり友達が出来なかった。 国民学校時代からの親友はいたが、そういう友達ともあまり遊ばなくなった。 終戦の8月15日以後も少し通学したので、1年半ぐらい在校したのに。 青島中学校生徒の服装は国防色といわれたカーキ色の制服に戦闘帽、 膝から下にはゲートルを巻く。 襟には学年を示す襟章。まるで子供の兵隊だった。 カバンはランドセルではなくて肩から掛ける。 4、5年生になると格好をつけて肩から片側に長くたらしてもいいが、 下級生はきちんと短くタスキ掛けにしなければならない。 校外では上級生に会うと必ず挙手の礼。 中学には軍隊のような階級制度が至るところに蔓延していた。 1年生はさしずめ新兵、上級生は古参兵だった。 昼休みは部活動で、自由時間ではなくなった。 国民学校時代のように、クラスで分かれてサッカーで遊ぶことなど、 もう夢となってしまった。 やっぱり一緒に遊ばないと友情は生まれないのかもしれない。 ↑生物教室の左側に1年1組から4組までの教室があった。 (99年訪問の青島中学・現海洋大学) 校内では上級生の命令が絶対で下級生は何の意見も言えなかった。 私はラッパ部にいたが、 たまたま上級生が使っていたラッパを吹いたことがばれて殴られた。 その4年生は真面目で、殴ることにあまり慣れてないようだった。 私に説教して殴っているうちに興奮して赤くなり、汗をかいていた。 原田先生に鍛えられた私の方が、殴られながら冷静に観察することが出来た。 上級生による制裁は認められてはいなかったが半ば公認のようで、 校内には先生に訴えても無駄という雰囲気があった。 生徒を殴り放題の先生もいた。 ある日、休憩時間に廊下で友達と立ち話している横を英語の先生が通った。 頭を下げて礼をして、 通り過ぎてから友達が小さな声で「ドンビャー」(どん百姓)とささやいた。 その先生のあだ名である。 運悪く驚くほど耳が良かった。正に地獄耳。 「今、何て言った。ちょっと来い」と友達は職員室に連れて行かれた。 一時間の授業が終わってやっと次の休憩時間に帰ってきた友人の顔は、 腫れ上がって変形していた。 平手だけではなくて、拳でやられたのだ。 「酷いことをするなあ」 「うん、ドンビャーよりも、スッポンにやられた」 「ちぇっ、上のヤツにはおべっかを使いやがって」 スッポンとは担任のあだ名で、ドンビャーは教頭の次ぐらいで席次は上だった。 いつもスッポンのように首を突き出して、 周りを見回しているその担任が嫌いになった。 生徒はいくら殴られても抗議は出来ないから、心の中で軽蔑するだけだった。 殴る先生は一部だったが、指導というよりも、 絶対に無抵抗の生徒に権力を見せつけてやろうと機会を狙っている感じで、 原田先生のビンタとは大違いだった。 私が殴られたのは生物の「仮分数」(かぶんすう)というあだ名のおでこの先生である。 「何か分からん植物があったら、持ってきて見せなさい」 と言われて正直に、家の庭の隅に生えていた珍しい形の草を持って行った。 先生は判らなかった。 ひと月ぐらい置いてまた別の草を持って行ったが、それも判らなかった。 先生は持ち帰って図鑑で調べようともせず突っ返した。 暫くして生物の時間が野外での草取りの作業になって、終了の鐘が鳴った。 ぞろぞろと集まって整列しようとしているちょっとした時間に、 私はごく小さな石を拾って何の気なしに近くの電柱に投げた。 それを仮分数が見ていた。 「お前、何してるんだ。そんなことして何になる」 血相を変えて飛んできて私を殴りつけた。 頬を二発、三発。 呆気に取られたのは私だけではなかった。 見ているクラスの友人たちも、何故そんなにひどく殴るのか理由が分からなかった。 しかし生徒は先生に抵抗できない。 「まぁ我慢しろよ。あいつはお天気屋なんだから」 解散してから友人に慰められたが、私には思い当たることがあった。 先生の知らない草を持って行ったことである。 恥をかかされたと腹を立てていたところに 私の“悪事”を見つけて復讐したのだろう。 ↑一階右側が生物教室。その外で仮分数に殴られた。 (99年訪問の青島中学・現海洋大学) 勉強の意欲が全くなくなった。 仮分数のせいだけではない。 原田先生の影響下から脱したことが大きかった。 成績は悪くなった。特に英語がひどかった。 “どうせ、あと3年経ったら死ぬのが分かっているのに、今からやって何になる” とほったらかして、英語どころかローマ字さえろくに書けない始末だった。 (この項つづく)
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2008年03月12日
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