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ミニ軍隊の中学校(二) 勉強の代わりに釣りに熱中した。 湖北路から金口一路の家に引っ越して、海がうんと近くなったのだ。 前にも金口一路に住んだことがあるが、今度の家はもっと近かった。 ↑金口一路37号の家 ↑金口一路の家には5世帯が住んでいた ↑妹さんが訪問した時。門の前 ↑妹さんが訪問した時の家の内部 家の前の階段が途中に幾つかある坂道を下って、 大通りを横切るともう海岸である。 水族館と産業館があって、海浜公園(現・魯迅公園)と呼ばれている。 走れば3分とかからない。 泳ぐときは家から水着で走った。当時はフンドシである。 学校から帰ると毎日、釣りに行く。 三ヶ月もやっていると、すっかり魚の釣れる場所が分かってきた。 潮の満ち引きによって釣れる場所が刻々移動する。 干潮の時には100メートル近くの沖まで、海面下だった岩が現れる。 先ずその突先きに行って、潮の満ちて来るのとともに、 岸へ岸へと釣り場を移動するのである。 ↑99年訪問時の岩場。 アイナメやメバルなどの地付きの魚は年中いた。 岩と岩の間の藻の茂みに潜んでいる。 縄張りがあるようで、一つの茂みでは1、2匹しか釣れなかった。 釣ったらすぐ別の場所に移動するのがコツだ。 どこに魚がいるか、藻と岩の具合、つまり海の相を見て判断出来た。 その海岸では、ちょっとした漁師の域に達していたと思う。 回遊魚では黒鯛が、 これも潮が満ちて来るとともに一定のコースを通って群れをなして泳いで来る。 その場所場所で待ち構えていたら、向こうからやってきて釣れるのである。 ただ回遊魚は季節によって大きさが変わり、コースも変更されるので、 地付きの魚のようにいつも釣れるというわけではなかった。 餌は干潮のときの潮だまりに小さなエビが泳いでいるのを掬っておく。 これは父親と一緒に行った時に、「いちばんいい餌だ」と教えられた。 他にも岩場の間の狭い砂地を掘ると、生きのいいゴカイがいた。 つまり餌代はタダ。それで誰よりも早く、たくさん釣れた。 釣り場の岩の位置と形は今でも覚えている。 先年、五十五年ぶりに青島に行った時に釣ったら、 ちゃんと同じ場所に、同じ魚が待っていてくれた。 ↑99年訪問時、同じ場所で釣ってみた。 ↑その日釣れた魚。昔はもっと釣れたものだが。 戦時中ではあったが、学校から帰ると楽しい毎日だった。 ところが一年の二学期になってとんでもないことが起きた。 始業式の日に級長と副級長が改めて指名された。 一学期は中学独自の資料はないので、仮のものだったのだろう。 そこで、なんと私が一年二組の副級長になってしまったのだ。 成績はどうみても「上の下」にもならない。せいせい「中の上」である。 何故そんな私が指名されたのか。 理由は分からないが、私は体大きくて体力はある。 水泳と相撲は国民学校ではトップだった。 戦時中だからそういうことが加味されたのかもしれない。 さらに運が悪いことに、級長が父親の転勤ですぐいなくなってしまった。 外地の学校ではよくあることだ。それで私が級長に繰り上がった。 毎日の朝礼では整列したクラスの一番前に立つ。 授業の度に起立、礼、着席の号令、 教練の時間もクラス全員を並ばせ、「番号」と号令をかけ、行進では先頭を歩く。 それくらいならまだいい。問題は試験の後、答案用紙が返されるときである。 級長の私が5、60点なのに、80点以上の者がぞろぞろいる。 級長の立場なかった。恥ずかしかった。 それでも釣りは止めなかったが、勉強するようになった。 一年生の夏休み前の昭和19年7月19日、サイパン島の玉砕が発表された。 続いて東條内閣総辞職。 この中学最後の夏休み(2年の時は動員で休みはなし)に、 とんでもない宿題が出された。 教練の宿題で、「軍人勅諭」の一部を生徒だけでなく、 その父親にまで書かせるのである。 「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」で始まるかなり長文の一節を、 筆で書けというのだ。速い人でも一時間はかかるだろう。 当時の中学校には陸軍の配属将校がいた。 彼は生徒と共にその親までも「軍人精神」を叩き込もうとしたのだ。 父に頼むと「そうか」と一言だけで書いてくれた。 忙しい大人にとっては大迷惑で、仕事の妨げになる。 しかし表立って反対したら面倒なことになる。 もう軍人に対しては、 おかしなことであっても文句は言えない雰囲気になっていた。 ↑99年訪問時の忠の海(第一海水浴場) |
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2008年03月15日
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