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第9章 勤労動員で苦力(クーリー)を監視 夏休み中の昭和19年7月25日の朝日新聞にこんな記事が載った。 「学徒動員ぐっと強化 中学3年以上は男女とも深夜業をやらせる 生産、生産、あくまで生産一本で勝ち抜け。 戦況の緊迫に即応して学徒勤労動員が徹底的に強化されることになり、 24日文部省から発表された。すなわち、 1、国民学校高等科児童、中等学校低学年生徒の動員 2、一週6時間の教育、訓練時間撤廃 3、一日10時間勤務の励行 4、男女とも中等学校3年生以上の深夜就業とその準備期間の短縮が 実施されることになったのだ。(後略)」 日本内地ではこれまでも中学生の勤労動員は行われていたが、 それが驚くほど強化された。 国民学校高等科や中学の低学年(1、2年)というと、13、4歳である。 それを働かせ、しかも週6時間は勉強させるという歯止めもなくしてしまった。 その上、一日10時間労働、 さらに中学3年以上つまり15、6歳の子供に 深夜勤務をさせるという“徹底的強化”を政府が決めたのだ。 これは“根こそぎ動員”とも言われた。 外地でも勤労動員は私達が中学校に入学する頃には既に行われていた。 最初の間は工作の時間に軍事物資輸送用の木箱 (現在の段ボール箱ほどの大きさ)を作る程度で楽なものだった。 やがて学校を出て埠頭や鉄道の構内で、 物資や鉄屑を貨車に積み込むような作業もした。 貨車に轢かれて脚を大怪我した上級生がいるという噂を聞いた。 正式発表はなかったが兄の同級生で事実だった。 ↑青島の街紹介、金口一路の建物 印象に残っている作業ではトラックに乗っての軍需物資の輸送があった。 早朝に私のクラス40人ぐらいが、市内のある倉庫に集合した。 そこにはトラックが数十台、荷を積んで並んでいた。 クーリー(苦力・中国人の日雇い労働者)も3、4人ずつ乗っている。 責任者らしい日本の兵隊が来て訓示した。 「これらの物資をある山中まで運ぶ。 途中、支那人(中国人の当時の呼び方)の街や村を通るが、 そういう時にクーリー達が車から物資を落として彼らに渡さないように、 お前たちが監視するのだ。 一台のトラックに一人ずつ分乗し、物資とクーリーから絶対に目を離すな」 この頃、サイパン島をはじめマリアナ群島を占領した米軍が、 次にどこに上陸するかが、日本にとって重要な防衛問題となっていた。 青島も上陸される候補地の一つと考えられて要塞を築こうとしていた。 行き先と、何を運ぶのかは知らされなかったが、そのための物資輸送だったらしい。 この時の私達は13、4歳の子供である。 常識的には非常に危ない仕事だが、 当時の大人も子供も、その程度のことをするのは当然と思っていた。 出発時刻が来て、数十台のトラックが土煙を上げて走り出した。 私は前方の運転席の屋根に背中をもたれて、クーリーと物資と見つめ、 時々、前後を走るトラックとの間隔に注意した。 もしも取り残されて私の車一台だけになったら心細いからだ。 それ以外は、初めての経験なので退屈はしなかった。 ↑金口一路の建物 私の車にクーリーは3人乗っていた。 話をしながら時々こちらを見て不敵に笑っている(ように見えた)。 怪しい奴はいないだろうか。 軍需物資を運ぶのだから、身元は調べてあるだろう。 しかし巧妙にスパイが潜りこんでいるかも知れない。 彼等が互いに話している言葉は分からないが、 外国人のしかも子供に監視されているなど嫌にきまっている。 本気になればお前なんか簡単に放り出してやるぞ、と考えているかもしれない。 することがないから、いろいろな妄想が涌いてくる。 全車両でクーリーたちが示し合わせて、 分かれ道で別々に走り出したらどうなるか。 武装した日本兵は全部で10人ぐらいしか乗り込んでいなかった。 何台かに一人だ。それで足りるだろうか。 もし襲われそうになったら、 先に自分が怪我しないように飛び降りて逃げるしかない。 それにしても此処はどこだろう。 家まで歩いたら何時間かかるだろうか・・・・。 2時間ぐらい走って山道にさしかかった。人家はほとんどない。 いつの間にか道路の横に水が流れていた。 幅は1、2メートルと狭いが、岩の間を流れて底まで透き通っている。 小休止になってトラックが止まると、クーリーたちがその水を飲んでいる。 「あ、飲めるんだ」と私も飲み始めた。 こんなきれいな水が湧くところは中国には滅多にない。 後で分かったことだが青島ビールの原料となっている労山の水だった。 飲料水も要塞をつくる一つの条件だったのだろう。 ↑金口一路の建物 しばらく走ってトラック部隊は目的地に着いた。 山の中の小さな村だった。段々畑に野菜が青々としている。 クラス全員が集合、人員点呼して人数を確かめ昼食となった。 段々畑の石垣や、狭い草原に座って弁当を開いた。 我われの弁当箱の中身は、 麦の少し混じった白いゴハンにおかずはたいてい肉か魚である。 すこし離れてクーリー達の昼食も見えた。 くるんだ布から取り出した中身は堅いパンのようなものだった。 それは食べ物屋で売っているのを見たことがあるが、 厚さ4センチ、直径30センチ位で、 トウモロコシや高粱の粉に小麦粉をまぜて練って焼いたものだ。 それを注文に応じて切って売る。 インド料理のナンに似ているがそれよりも厚くて堅く、ぱさぱさしている。 それをザーサイのような塩辛い漬物と一緒に水を飲みながら食べていた。 そのナンのようなものは子供の目にはあまり美味しそうではなかったので、 我われの買い食いの対象にはならなかった。 日本人が家庭で食べていた小麦粉だけのマントウは贅沢品で、 彼等は誰も食べていなかった。 ↑金口一路の建物 弁当を食べ終わった私は時間がありそうなので、 集合地が見える範囲で村の探検に出かけた。 所々に民家があったが、ほとんど人は見かけなかった。 段々畑の中のちょっとした平地に牛が木に繋がれていた。 ゆったりと寝そべっておとなしそうだ。 青草を千切ってきて口に持っていくとうまそうに食べる。 “よし、それなら”と調子に乗った。 これまでに動物の背中に乗ったのは、公園でロバにまたがったくらいだ。 それも、手綱を持った係員がいた。 今、目の前に長々と大きな牛の背中がある。 しかも地べたに寝ているので、またげば乗れるのである。 飼い主に見つかって怒られたら、その時はその時だ。 誘惑に負けてそっとまたがった。 とたんにガンと頭をぶつけ、痛みが顎までひびいた。 気がついたら地面に投げ出されていた。 牛が猛烈な勢いで立ち上がり、 私の頭が地上に平行に伸びていた木の太い枝にぶつけられたのだ。 大きなタンコブが出来た。誰も見ていなかったが、猛烈に痛かった。 牛がノロマだと思っていたのは大違いだった。 馬よりももっと動作が敏捷だ。 それは戦後、アメリカ映画の西部劇を見て分かった。 ロデオ大会で荒馬を乗りこなすよりも、暴れ牛を乗りこなす方が難しいようで、 ルールで乗っていなければならない時間は、牛のほうが短くていいことになっていた。 帰りはクラス全員が同じトラックに乗った。 しかしこれだけ珍しい経験だったのに、誰とどんなことを話し合ったか覚えていない。 やはり中学では国民学校時代のような親友がいなかったからではないだろうか。 ↑金口一路の建物 青島の奥地の山に要塞を造る、 というような当時の軍部の戦況判断に基づく作戦があったため、 後に大きな悲劇が起こった。 私はタンコブをつくった程度ですんだが、 青島に住む一部の日本人がその間違った判断のために、 財産から生命まで失ったのである。 昭和20年5月、 海岸に面した青島には米軍が上陸するかもしれないということで、 家に主柱になる男手のない留守家族や婦女子たちは 内陸の済南市などに疎開することになった。 その三ヵ月後に終戦である。 皮肉なことに日本に引き揚げる基地は、出てきたばかりの港のある青島だった。 8月15日終戦、その直後から中国の国民党と共産党の内戦が激しくなった。 青島と済南を結ぶ鉄道・膠済線もすぐ爆破された。 済南から青島まで400キロある。 敗戦の国民にはトラックなどもほとんど調達出来なかった。 それでも着いたばかりの疎開者達は、すぐ引き返さなければならない。 老人と女も子供も歩くしか方法はなかった。 済南の元からの在留邦人も含めて、途中ずっと略奪に遭い、 死者を出しながら、難民となって青島にたどり着いたのである。 こういう悲劇は大陸のいたる所であったが、ほとんど知られていない。
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2008年03月18日
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