|
第10章 三八式歩兵銃の疑問 昭和20年4月、私は中学2年になった。 勤労動員はあったが、初めのうちは授業のある日数のほうが多かった。 しかし沖縄本島に米軍が上陸し、戦局はいよいよ不利になってきている。 3月10日には東京大空襲があった。 翌日の朝日新聞には大本営発表として 「B29百三十機、東京市街地を大爆撃」との見出しで、 被害はほとんど報じていないが、小磯首相の談話で 「今早暁の帝都空襲はまったく暴戻極まる盲爆で、 またしても宮城内さえも汚し奉ったことは誠に恐懽の至りである。 私は罹災者各位と辛苦を共に致したい気持ちから焼け跡を一巡したのであるが、 満目荒寥たる中に立って、何ともいえぬ痛憤がこみ上げてくるのを禁じえなかった。 今暁の空襲は盲爆というよりは、市街爆撃であり、無差別爆撃であり、 たとい戦争下においても断じて許されるべきものではない。(中略) この残虐暴戻の輩を思い知らせるの途はただ戦いに勝つこと、それのみである」 そうして4月21日には阿南陸相が「皇土決戦訓」を布告したことが報じられた。 (朝日新聞) 「敵は硫黄島の占領に引き続き沖縄島攻略の野望を示し、 同島に於ける戦闘は日を追って激化しつつある。 敵軍を皇土に邀え、今こそ仇敵撃滅の神機ともいうべきである。 陸軍では皇土決戦の重要性とその性質に鑑み、この程“決戦訓”を全軍に布告し、 皇土決戦に即する具体的手段を明らかにするとともに、国家の総力を本決戦に結集し、 皇国護持の大任完遂に勇往邁進すべきことを強調した。 すなわち決戦訓は、 一、聖論の遵守 二、皇土の死守 三、待つあるを恃む(注:たのむ 備えて 待っている者は必ず勝つ) 四、体当たり精神の徹底 五、一億戦友の先駆 の五訓からなっており、皇土決戦に際し皇軍将兵は右五訓をかく守し、 速やかに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべきことを論じている。(後略)」 以下の記事は五訓の説明となっていたが、 前文にあった“決戦への具体的手段”というものは見当たらなかった。 結局、この頃には敵の攻撃に対応する武器は、 もう抽象的な勇ましい言葉だけしかなくなっていたのだ。 そういうことは中学生の私達には分からなかった。 ↑金口一路の建物 家庭での生活は以前通りで、私は学校から帰ると相変わらず釣りに行っていた。 しかし授業の内容は急速に軍事的になってきた。 先生の都合で休講になると、よく作業の時間に変わった。 マンモスというあだ名の体の大きな先生が担当する。 草取りや畠を耕すのなら楽だったが、マラソンが多くなった。 さらに校庭の隅にある絶壁をよじ登らせたり、 4メートルぐらいありそうな高いところから飛び降りさせる。 ヘタしたら骨折の危険があるようなことを、平気でやった。 ↑金口一路の建物 教練の時間には銃を渡された。三八式歩兵銃である。 それを校庭で分解し、組み立てる。 「この銃は天皇陛下から頂いたものである。細心の注意で扱わなければならない。 もし万一、部品の一つでも無くしたら絶対許さない。 全員が校庭を這い回って、見つかるまで探させる」 教官の厳かな訓示を聞いて分解を始めた。 分解は比較的簡単だったが、組み立てる段になっておかしくなった。 全部品がうまく収まらない。 あまった部品が出て無理に入れると壊れるかもしれない。 部品を無くしたら校庭中を這い回される。壊したらどうなるか。 私は周囲を見回していい方法を思いついた。 この頃には、中学校の校舎に、よく陸軍の部隊が宿泊していた。 講堂や集会所が広いので、多人数でも全員が泊まれる。 青島を経由して奥地に向かう部隊が利用していたのである。 骨休みなのだろう、用事はあまりなさそうで、 あちこちで日向ぼっこしたり、散歩している。 教官のスキを見て私は日向ぼっこの兵隊さんのところに走った。 「これ収まらなくなっちゃったんです。直してくれませんか」 「ほう三八式か。僕の使っているのと同じだよ」 といって簡単に直してくれた。 おかげで無事に教練の時間を終えることが出来た。 (この項つづく)
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2008年03月21日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




