青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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厦門の共同租界で

第14章 厦門の共同租界で



私は中国大陸に中学二年までいて、

日本の兵隊さんと相撲でいい勝負をするところまで育った。

生まれてからそこにいたるまでの経過を振り返ってみよう。

イメージ 1

↑青島風景:冬の桟橋



昭和6年、台湾の対岸にある中国の福建省・厦門(アモイ)で生まれた。

父は総領事館に勤めていて、

その勤務先も官舎も厦門市のすぐ沖の鼓浪嶼(コロウショ)、

別名コロンス島にあった。

中国の都市の中で

万国共同租界として開放された(1904年に英国が最初)地域で、

各国の大使館、領事館や富豪の大邸宅がある景色のいい島である。

私がいたのは3歳までだから全く記憶はない。

これからの話は2歳上の兄から聞いたものである。

母は赤ん坊の私を抱き、兄の手を引いて散歩や買物に出た。

すると中国の婦人が寄って来て、母の着ている服の品定めをして褒める。

服にさわって生地を確かめたり、デザインの批評などをするのである。

そして抱かれている私の頬にさわったりして、可愛いとまた褒める。

これが地域社会の交際の礼儀になっているようだった。

この間、年上の兄はかまってもらえなくて、仏ちょうづらの時もあったらしい。

その兄も厦門ではいろいろ親に手を掛けたようだ。

ある日突然、行方不明になった。

母からの通報で勤務中だった父も必死に探したが見つからない。

誘拐されたのかも知れない。

父は総領事に頼んで、

コロンス島から中国本土に向かう船の出港を一時止めてもらった。

警察にも頼んで捜索した。

それでも見つからなくて家で蒼ざめていた両親のもとに、

やがて兄が「タダイマー」と元気に帰って来た。

ゆっくり問いただすと、御用聞きのお兄さんとずっと一緒だった。

あちこちと島中に散在するお得意先を回っているうちに

何時間も経ってしまったのだ。

御用聞きのお兄さんは家の人も知っていると思って

親切に連れて回ってくれたのだから、あまり怒るわけにはいかない。

そのせいかどうかは分からないが、

子供がいつも外をふらふら出歩いていては危ないと思ったのだろう。

父は官舎の庭に独力で私達兄弟が遊ぶためのブランコと滑り台をつくた。

ブランコは二台あって、一つは幼い私が乗れる箱がついている。

写真で見るとかなり頑丈なものだ。

デパートにある半製品のキットを取り寄せたのかもしれないが、

ぐらぐらしないような土台造りからして大変だったと思う。

この頃の父は三十代前半のマイホームパパでもあった。

子供はちょっと眼を離すと何か“事件”を起こす。

メイドと一緒に海岸通に散歩に出かけた時、

兄はちょこちょこ走り回っていたのだろう。

岸壁から砂浜に落ちてしまった。2メートルほどの高さからで腕が折れた。

厦門にはいい病院はなかったようで、

応急手当をした後、船で台湾海峡を渡って遠く台北帝大の大学病院に連れて行った。

入院していた時の両親は特別に優しかったようで、

兄はゴムで動く飛行機等それまで欲しかった高価な玩具を買ってもらった。

一見平和な家庭生活のようだが、塀の外では反日の機運が高まっていた。

イメージ 2

↑青島の街風景:堂邑路(厦門の写真がありませんので青島の写真です)
  建物は旧三井物産跡


昭和6年、柳条溝での守備隊の衝突から満州事変となり、

中国全土に反日運動が広がった。

昭和7年には上海で、

日蓮宗のお坊さんが5人で市内を托鉢行脚しているところを襲われ、

死者一人、重傷者二人を出した。

日本軍の謀略とも言われたが、これが上海事変の発端になる。

上海は当時、東洋で最大の工業都市だった。

租界には欧米や日本の会社のビルや、そこに勤める社員たちの住宅があった。

公園も学校もあって美しい街並みだったが、

その周囲は工場や貧民街、それに魔窟と言われたアヘンや売春の怪しげな店が並ぶ。

そこで20万人以上の中国人労働者が低賃金(一日20セント位)で働かされていた。

資本家としての日本は新参者だったが、欧米人より恨みを買っていたようだ。

厦門でも昭和9年、宗教のことで問題が起きている。

この時は父が転任になって厦門を離れた直後だったが、

在留邦人が多くなって仏教信者が本願寺を建立しようと敷地の買収を始めた。

すると中国人は「日本寺院は侵略の大本営になる」として、

反対運動を起こしたのである。

キリスト教の教会は建っているのに、日本人はこういう問題は下手なようだった。

反日の空気は大陸全土にわたっていたので、

この種の騒動は父が赴任するどこの領事館でも抱えていたようだ。

家族もそれだけ危険にさらされていたことになる。

イメージ 3

↑青島の街角:楽陵路の市場前



厦門の在留邦人には心強い味方もあった。

日本の軍艦が度々港に入ってくる。

乗り組みの水兵さんがブラスバンドを先頭に堂々と市内行進をする。

反日運動に対抗する示威行動である。

我が家にも「海軍さん」がよく遊びに来て風呂にも入った。

同郷の人だったと思われる。

そのお土産が子供にとっては楽しみだった。

軍艦にも乗せてもらった。

こういう環境の中で子供に安全のシツケをどうするか、

親はそれぞれ心を砕いたようである。

用心するといっても周囲は全部中国人だ。

絶対安全を考えたら、どこにも出られないし、誰とも付き合えない。

使用人は中国人だし、街で買物をする相手も中国人、街の通行人も殆どそうだ。

そこで親達は世の中には「いい人」と「悪い人」がいると教えた。

使用人も店員も、街で両親が立ち話する人も「いい人」である。

いい人だったら子供は手をつないでもいいし、抱かれてもいい。

こんなことがあった。

ある日のこと、家に真っ黒な肌に髭をはやし、

身長2メートルはあろうかという怪人が突然やって来た。

近くで見た兄は怖くなった。

玄関で応対している父にそっと、「この人いい人?」と聞いた。

父は「うん、いい人だよ」と答えて談笑していたが、

父の背の高さは怪人の肩までしかない。

兄は「お父さんも本当は怖いんだけど、我慢しているのじゃないかな」

と感じたという。

怪人の正体は後で考えると、インド人の警官だったらしい。

「悪い人」について外地の子供たちが共通して教え込まれていた第一が

「人さらい」である。

これは親の誘拐犯対策だったのだろう。

それに「泥棒」「放火犯」「キョウサントー」等が続く。

子供たちの危険は日常生活の中に常にあった。

それを当たり前として育ったために、

子供なりに危険の対処法は身に着けていたようだ。

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