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第18章 青島 家の周りの中国人と接触 張家口にいたのは一年足らずで昭和14年6月、父は青島に転任になった。 青島も前記のように反日運動で一旦、在留邦人が全員引き揚げて、 また帰って来たばかりのところである。 最初に入った家は仮の宿で、 総領事館に近いメインストリートの山東路(現・中山路)に面したビルの二階だった。 窓から見た眺めはこれまでいた満州や中国の街とはまったく違っていた。 広い道路は全面舗装されて、プラタナスの並木がある。 通りを歩くと中華料理や宝石店、漢方薬店、映画劇場もあった。 家並みは高くても4、5階建てだったが、 ピンクやクリーム色の壁に緑、橙色の屋根など明るくあか抜けている。 大正時代にドイツが建てたヨーロッパ風な雰囲気が残っていた。 腕を組んで歩く金髪のアベックも初めて見た。 3歳までいた厦門でも見たはずだが、覚えてはいなかった。 気候温暖な避暑、避寒地として欧米人に人気があり、観光客や滞在者が多かった。 ドイツの施政(法的には租借)時代は、市の美観を損なわないように、 同じ色や形の家を並べて建てることを禁止した、ということも観て分かった。 海岸に近いこの山東路の仮の宿から第二小学校に通ったが、 3カ月位で青島神社近くの黄台支路に官舎が完成して引っ越した。 そこからは学校が遠くなって、子供の足では片道4、50分かかる。 本来なら第一小学校の通学区域だったが、父は転校させなかった。 また再び第二小学校近くに引っ越す予定があったからだ。 ↑黄台支路1号の官舎跡;99年12月(官舎はもうなかったが、 この付近の中国人の家の庭で桃泥棒をやった) ここから遠い学校に通ったおかげで、 中国人とのいろいろな接触を経験することになる。 新居は三階建で、いちばん広い一階が6人家族の我が家になった。 コの字型の4LDKである。 同じ敷地内にもう一棟、小さな二階建があって父の同僚が住み、 共通の庭が150坪位あった。 隣近所は庭が広い中国人の大きな屋敷が並んでいた。 学校まで遠かったので、バスで通学することになった。 小学校2年生で生まれて初めて一人で定期券を持って乗る。 恐らく最初は兄と母と一緒で、乗り降りの仕方を教えてもらったと思う。 乗客は殆ど中国人で日本人は滅多にいない。 もちろん運転手も車掌も中国人である。 それでも慣れると緊張感はなくなって、 もっと面白いことはないかと探すようになる。 バスの型は統一されてなくて、古く汚れた型やピカピカの新車も走っていた。 当然、ピカピカに乗りたい。 学校帰りに反対方向にいくそのバスを見たら、 終点に行ってそれが引き返して来るのを一時間近くも待って乗ったりした。 バスは学校からしばらく海岸通りを走る。 家からは遠くなるが海岸で遊んで道草しても、 近くの停留所で乗ればいいのである。 波打ち際まで行くと、堤防になっているところからは泳いでいる魚が見える。 「見える魚は釣れない」という事をこの時教えてもらった。 岩場で釣っている人のところに行って、 「釣れますか」と魚篭を覗いても怒る人はいなかった。 堤防は道路から45度ぐらいの傾斜で、 注意して歩けば降りられるようになっている。 10メートル位降りたところに50センチ幅位の水平な歩き場所がある。 その下は垂直に海面に落ちている。 ↑定期券を落とした堤防の斜面(99年12月) ある日、いつものようにその堤防を降りて行くと、 突然足がずるずると滑り出した。 止まろうとしても止まらない。靴の下にざらざらの砂があった。 いたずらか偶然かは知らないが、誰かが振りまいていたのだ。 靴だけではブレーキが利かない。このままでは海に落ちてしまう。 前のめりになって両手をついた。 ぎりぎりの水平の道まで滑り落ちてやっと止まったが、 その時、胸のポケットから定期券が波立つ海面にぽとりと落ちていった。 ずぶ濡れにならずに済んだが、難題が一つ持ち上がった。 お金は一銭も持っていない。 定期がないとバスに乗れない。家に帰れないのだ。 家から遠くまで来ているし、歩いて帰るのは道を聞き聞き大変だ。 誰にも頼れないからバスにタダで乗るしかない。 小学2年生の頭でそう決断した。 今考えれば、学校に引き返して職員室に行き、先生からお金を借りればいいし、 父の職場の総領事館も海岸通りのそう遠くない場所にあった。 何とでもなったのだが、その時の知恵はタダ乗りしかなかった。 何食わぬ顔でバスに乗った。 車掌は乗降の暇を見ては車内を切符切りに回ってくる。 私は知らん振りをしていた。 中国語が出来ないから事情を話して、明日払うというようなことは言えない。 何度も回って来るが、私は前方の一点を凝視したまま無言である。 遂に車掌が催促の声を掛けるようになった。 それでも黙ったまま・・・。 車掌は周りの中国人乗客に何かしゃべっている。 「しょうがない日本人のガキだよ。金を払おうとしない」 とでも言っていたのかも知れない。二十歳位の若者だった。 ↑寄り道をした海岸は桟橋の近く(99年12月 やっと家の近くの停留所に近づいた。最後の難関だ。 車掌は降車口で 「イイシャデ ユーメイユー」(下車する人はいませんか)と叫んでいる。 “降りる時に止められたらどうしよう”。 私は前方一点を見据えたまま、 切符をくれと出している車掌の手を押しのけて地上に降りた。 助かった。 車内で車掌は首をすくめて両手を広げ、 「どうしようもないや」と周りに訴えているようだった。 もし日本内地でランドセルをしょった子供がこういうことをしたら、 どうなるだろうか。 定期券を落としたと言えば、乗客の誰かが料金を払ってくれるだろうし、 運転手も車掌も「この次に払うんだよ」と言ってくれるだろう。 言葉の分からない中国人の子供だとしても同じことだったと思う。 しかし青島の日本人は、 中国人にそこまで親しまれる存在ではなかったのかもしれない。 家で母に定期券を落としてバスにタダ乗りしたことだけ報告して 新しい定期代を貰い、 冒険の詳細については言わなかった。 そのバスは時間が不正確で、そのため学校によく遅れた。 仕方がないので3年生になってからは徒歩通学にした。 朝行くときは遅れないように、兄と一緒にわき目も振らずに急ぐ。 しかし帰り道は一人である。 校門を出ると、今は青島の観光名物になっている教会の時計台や、 青島病院がある緩やかな坂の大通りをぶらぶらと登って行く。 ↑この時計台の下の坂道を登っていく(99年12月) 20分ぐらいで登り切って道が分かれ、左側は大通りの延長だが、 右の舗装されていない中国人だけが住む街を通り抜けて行くほうが近道だ。 会社や大きな住宅はない庶民の生活道路で、 そこを20分以上は歩かなければならない。 その街を歩いているといろいろな刺激があった。 同じ年位の子供が塀の向こうから首を出してからかってくる。 「ツォニー マーラガ ピー」。 子供はどこの国に行っても悪口を最初に覚えるものだ。 この言葉は誰でも中国に来た子供が最初に聞く悪口だ。 しかしその意味は両親に聞いても 「悪い言葉だから言っちゃだめ」と教えてくれなかった。 何となく汚い言葉という想像はついていたが、 正確に分かったのは日本に帰って親しい中国の友人が出来てからだった。 「お前の母親をファックするぞ」というようなとんでもない意味だった。 親が子供に教えられないわけである。 思えば、こんな子供の時から凄い悪口で鍛えられている中国人だから、 神経の太さが違う。 国家間で相手とやりあう外交でも、 ナイーブな日本人には考えられない脅し文句が出てくる気がする。 ↑近道は中国人の住んでいる生活道路だ 中国人の子供にからかわれても、 腕力のケンカを吹っかけられるようなことはなかった。 一人で雑貨屋や肉屋、金物屋、安食堂等の店を覗きながらぶらぶらと帰る。 途中でお腹が空くので買い食いをした。 小柄なお婆さんが小さな台の上に落花生を積み上げて売っている。 皮付きと、むいてあるものとある。 私はいつも「チェガ(これ)」と指差して5角(銭)札を出し、 むいてあるのを買った。 新聞紙で作った袋に入れてくれる。子供のポケットに入る位の量だ。 小遣いは貰っていなかったので、5銭は母の財布から失敬してきたものだ。 母がいない時にこっそり覗いて、小銭がいっぱいある時に失敬した。 だから毎日買い食い出来たわけではない。 母はあるいは知っていたのかもしれないが、一応ばれずに済んだ。 ↑小さな店があって買い食いをするには便利な道路 道路で見かける中国人労働者で いちばん印象的だったのは一輪車で物を運ぶ姿だった。 荷物を載せる木の台の中央に直径60センチぐらいの木の車がついている。 ワッカは鉄製である。 左右に米俵一俵ずつ位載せられるスペースがあって、 米だったら二俵で120キロだが普通は石炭を運んでいた。 同じ量なら米よりずっと重いから200キロ位はあるだろう。 それを左右についた取っ手を握り、車体の前方から出ている帯を首にかけて支え、 上下左右の平均を取りながら押して行く。 5人、10人と一列縦隊になって押していく車の下の道路は石が敷かれていた。 これは青島に来てすぐ気が付いたのだが、 アスファルトの道路には必ず、 歩道から1メートル位離れた車道に幅50センチ位の石がずっと敷いてある。 それは一輪車用の道だった。 重い鉄の車に通られたら、アスファルトの舗装はたちまち壊れてしまう。 それぐらい重いものを延々と歩いて運ぶのだから大変な重労働である。 市内に何万軒とある家庭や商店の燃料である石炭は、 彼らの労働なしには届けられない。 もちろん我が家の石炭庫もそうだった。
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