青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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似た環境と性格

最終章 似た環境と性格




私は50歳を越えて妻を亡くし、やはり連れ合いを亡くしていた玲子と再婚した。

実は玲子も私と同じ大陸育ちの引揚者だった。

玲子が話すと満州での小学校時代や、

終戦後は父親と離れた一家が散々な目に会いながら帰国してくるのだが、

その話がちっとも悲惨でなくて面白かった。

玲子の父は裁判官で、

満州の新京(長春)、撫順、奉天(瀋陽)吉林等の地方法院、高等法院に勤務していた。

吉林で終戦となり、

法院次長(名目的な長は中国人だが、次長が事実上の最高の地位)をしていたので

戦後は危ない立場だった。

しかし事務引継ぎを終わったところで中国人の審判官から、

「日本は確かに負けたが、なんと言っても先進国で

これからも我われは学ばなければならない。

私の子供たちが成長したら日本に留学させたいから、その時は宜しく」

と言われたそうである。

昭和7年に満州国が建国された頃は、地方地方に軍閥が割拠していて、

その勢力争いで住民はいつ襲われるか戦々恐々だった。

田舎の町や村の周囲に、

張り巡らされた城壁が残っているのもその名残りの証拠である。

そういう地域に日本が来て満州国として治安を保ち、

通貨を安定させ、教育を普及させた。

それは侵略でもあったが、一方で感謝している住民も多かったのは事実である。

事務引継ぎ後も法院の旧部下とお茶を飲むような関係で、

地元の中国人とはうまくいっていた父親が、

9月にソ連兵がやって来ると捕虜としてシベリヤに連れて行かれた。

法的な根拠は何も無いのだから、国家による大規模な拉致である。

しかし、シベリヤ行きはまだ運のいい方だった。

ソ連兵の後から“解放”に来た八路軍(共産軍)は、

残っていた日本の役人や民間の要人を片っ端から人民裁判にかけ、

無実の人も死刑にしている。

イメージ 1

  ↑西安華清地にて:01年11月



玲子の父親がシベリヤから帰って来たのは昭和25年である。

離れ離れになって4年余り、

一家の主柱を失った家族は、どうやって生きて来たのだろうか。

こういう話は暗くて悲惨になりがちだが、

玲子の口から出ると、楽しく奇想天外な話になって笑ってしまう。

満州の吉林に残された家族は35歳の母親と13歳の長女を頭に5人の子供がいた。

収入はゼロである。

それでも初めのうちは今までの家にいられたので、

着物や家具類の売り食い生活が出来た。

やがてその家を追い出され、売るものも底をついてきた。

そこで母親と長女は僅かに残った着物や洋服をばらばらにほどいて人形を作った。

一着をそのまま売ると百円ぐらいにしかならないが、人形を作ると30個は出来る。

一個10円で売れるから3倍になる。

一日10個ぐらい作れるので、それを売った。

人形の売上は二人で一日百円位になって、それでお米一升が買えた。

突然、国の庇護と頼りとする父親を失った中で、

そういうどん底での生活力を見につけていた。


もう一つの彼女の得意は軍歌である。

好きというわけではないが、どんな歌でも歌詞を全部覚えていた。

吉林の国民学校時代、音楽の時間は必ず軍歌を歌わされていたという。

また満州国国歌も正確に覚えていた。

天地内 有了新満州(テンティネイ ヨーラシンマンチョオ)

新満州 便是新天地(シンマンチョオ ピェンシーシンテンティ)

頂天立地 無苦無憂(ティンテンリーティ ウークーウーヨー)

造成 我国家・・・(ツァオチョン ウォクオチァ・・・)

「宇宙の中に新満州がある 新しい満州がすなわち新天地である

天を頂き大地に立って 苦しみも憂いもない 我が国家を建設しよう・・・」


実は私もこの歌は覚えていた。

前記のように小学校に入学したのが

同じ吉林省の東南の端にある小都市延吉だったからだ。

朝礼の時間によく聴いたように思う。

青島のように原田先生はいなかったが、

吉林の学校もかなりの軍国教育だったようだ。

学校から帰るときや友達と別れるときの挨拶は、

片手を挙げて「ベイエイ・ゲキメツ(米英撃滅)」だったという。

おかっぱ頭の女の子が、大真面目でそうやっていたのだ。

イメージ 2

  ↑上海豫園にて:01年11月



他にも共通する点があった。

私達は共に日本に引き揚げてから父の兄つまり伯父の家に転がり込んで

居候の生活を送った。

私は熊本県、玲子は岐阜県の共に農家。

子供6人を抱えて私の母は大変だった。

父は必ず帰ってくるはずだが、いつになるかは分からない。

その間、子供たちを学校にやらなければならないし、

それよりも先ず食べさせなければならない。

着の身着のままで帰ったので売る物もほとんどなかった。

それに突然、家族7人の食い扶持が増えて、

伯父も困ったことになったと頭を抱えたことだろう。


母は早朝から起きて家事と農作業を手伝った。

私も日曜は田植や草取りを手伝い、

毎日の仕事としては飼っている農耕馬の世話をすることになった。

朝と夕方、藁を切り、糠や穀物を混ぜて食べさせる。

学校から帰ると厩から引き出して、川に水飲みに連れて行く。

草も食べさせる。これが大変だった。

馬を外に出すには先ず口に轡をつけなければならない。

嫌がって私の手を噛んだり前足で蹴ったりするのを避けながら、やっとつける。

少し年寄りで、根性の悪そうな牝馬だった。

百姓馬だから鞍なんか初めからない。裸馬で乗りにくいが、

落馬する時はあぶみに足が引っ掛かる心配がないからかえって安心だと言われた。

馬には以前から乗りたいと思っていたので嫌な仕事ではなかった。

しかしクセのある馬だった。

田舎道でも時には車が通る。すれ違う時、後ろ足で立ち上がるから怖い。

田んぼ道を行こうとすると、すぐ立ち止まってしまう。

仕事をさせられると思うらしい。

頭を家の方向に向けると喜んで走り出す。

一度、よほどノドが渇いていたのだろう。川に向かって猛烈な速さで走り出した。

手綱をいくら強く引いても止まらない。

堤防に駆け上がると水飲み場まで一直線、両足をそろえて競馬馬のように疾走した。

風を切る音がする。

怖かったがこの時、こういう走り方をすると、馬の背中は揺れないことが分かった。

おかげで疾走中は落馬しなかったが、

堤防を降りて馬が水を飲むために川に口を突っ込んだとたん、

私は首っ玉にしがみ付いたまま水中に落とされた。怪我はなかった。

イメージ 3

  ↑万里の長城にて:01年11月



伯父の家は農家だけに広くて敷地は三百坪位だった。

建物は百坪位あったろう。

6部屋のうち一部屋を借りていたが、

父が帰るまで家族は肩身の狭い思いをしていた。

母の唯一の心の支えは

「この長兄の家を建てるときは、お父さんも無理して貯金を送ったのよ」

ということで、子供たちに何度も話していた。

だから少しぐらいの期間はただで住む権利がある、

と自分にも言い聞かせていたのだろう。

同じく子供5人で岐阜の農家の伯父の家に世話になった玲子の家族も、

多かれ少なかれ似たような経験と思いをしたに違いない。

家族だけで帰ってきたのが21年9月、

頼りの父が帰ってきたのが25年2月、居候生活3年半である。

こういう共通の経験がお互いを身近に感じさせたようである。

定年退職後、二人で海外旅行するようになって息がよく合った。

私達はレストランに入ると、

見渡して正面や窓際のいい席が空いていると、堂々とそこに座った。

白人と同じ料金を払って同じ権利があるのに、

目立たないように片隅に座るのは嫌だったからだ。

日本人として負けたくないという肩肘張った意識がないわけでもなかったが、

引き揚げ直後に伯父の家に居候して、肩身の狭い思いをしたことも影響しているようだ。



★ご愛読ありがとうございました。

筆者・武藤直大氏の著書、

「新聞記事に見る激動の近代史」

が、今月26日に発売になります。

どうぞご期待ください。

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