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西村唯雄の「海外体験記」(二)
2、ソロモン諸島 (S8゜、E160゜附近の海域)
第2次大戦中日本陸海軍と聯合国軍との激しい戦いがあった地域で
日本側は殆ど全滅に近い損害を被り、
以後日本は敗戦へと繋がって行く事になったいわく付の場所である。
附近の海域は日米双方の艦船が激しい戦いにより多数沈没しており
現地の人に海底はBottom Ironと言われている。
又、この附近はもともと鱶が多く、
戦前は原住民の食べ物として捕獲していたようだが、
多くの人が其の戦いの為海上で死亡し、
鱶の餌食となったということで鱶を殆ど食しなくなっていると言う。
昭和40年に入って大洋漁業と独立国となったソロモンとの間で、
付近の海域で多数漁獲できるカツオを目的とした
合弁事業ソロモン大洋を設立した。
事業内容はカツオの漁獲と缶詰製造を目的したもので、
本社は首都ホニアラに置き、
漁船の操業の基地と缶詰工場は対岸のツラギ島に設置された。
カツオ資源も豊富で会社も順調に動いていた。
しかし大洋漁業の当時の中部兼吉社長は、
カツオだけではなく他に利用できる水産資源(魚類)はないか、
「調査する必要がある」ということで、
どういう訳か私に其の調査の社命がおりてきた。
昭和50年夏の事である。
早速調査に必要な知識、道具など調べ、手当てして、
送る物はソロモン大洋宛に送付した。
調査船、必要な人員については
総てソロモン大洋で整えるということであった。
ソロモンには鹿児島発ナウル航空を利用、
ニューギニア東部のポートモレスビーを経由、
ナウル共和国を経てソロモンの首都ホニアラに入った。
ナウルで一泊したので2日かかったことになる。
さらにホニアラのホテルで一泊。
その間、合弁会社の連中と会食し、
いろいろと事務的な打ち合わせなどして明朝ツラギの基地に渡ることにした。
翌日ツラギの基地に到着。
基地ではかつお一本つり漁船15人乗りの小型船10隻余りが操業しており、
一日約20〜30トンぐらいの水揚げがあるとの事、
水揚げ場の横はすぐ缶詰工場と接しており機能的な作りとなっていた。
漁船には日本人乗組員が2人(船長、機関長)と、あとは現地人で操業していた。
工場には日本人20人と現地人80人ぐらいが働いていた。
現地人は殆ど男性で言葉のやり取りは日本語と英語のちゃんぽんで、
それでうまく意思の伝達ができているようだった。
仕事の流れが決まっているのでそれでいいのかもしれない。
現地の言葉は公用語が元英国領だったので英語となっているが、
島民が使っている英語は
文法無視のピジンイングリッシュと言われている言葉で、
英国人が島民に単語を並べただけで意味が通じるように教えたもので、
自分という言葉は総て「ミイ」で表現し
私は働くは「ミイ ワーク」と言う事になる。(全島民の共通語)
これだと私も上手くなるかも・・・。
出来る缶詰は総てオイル缶で欧米に輸出、
ソロモンにとっては外貨稼ぎの大黒柱となっているとの事であった。
現在は規模も大きくなりソロモン自体の事業として稼動しているそうである。
(かつおの粗節も作っており其の殆どは日本に輸出している)
さて、私の仕事に戻りますが、
送っていた調査に必要なチャート、道具を受け取り、
かつお釣り漁船1隻と作業に必要な乗組員付きを
私が自由に利用出来るように準備していてくれていた。
偉大な社長命令というのはこんなにまで徹底されるものかと
改めて実感したものである。
其の夜は工場の日本人責任者、手のすいていた日本人社員と会食。
食堂では中年の日本女性婦人が料理を担当していた。
こんな所までよく来たもんだと感心した。
日本人社員と技術者は食堂の近くの開けた丘陵地帯に
2、3人宿泊出来るような一戸建ちの社宅が8棟ほど建っていた。
其のうちの1棟を当分の間の宿舎として利用することになった。
ツラギ島は年配の人は知っていると思うが、
ソロモン島の中でも日米戦の最も激しかった場所で、
敵味方の戦死者は数知れず、
今もって遺骨の収集が終わっていない地区と言われている。
また小さい湾の奥には、
駆逐艦や他の船舶が座礁したままの残骸がそのまま残っているのである。
中に点在している島に漁場調査中、上陸して見ると、
潰れた鉄兜や錆びた銃剣、銃の銃身などが
幾つも転がっているのを発見することも出来た。
又、首都ホニアラのあるマダガスカル島も激戦地で、
陸戦病院跡では負傷者を含め
アメリカ軍の捕虜になって恥をさらすなとのことで全員自決したとの事。
其の跡地に昭和40年頃、
生き残った戦友達の思いが叶って日本より慰霊碑が建立され、
そこを訪れた人は必ず花を添えて冥福を祈るとのことであった。
私もお祈りした1人となったことは言うまてもありません。
水産資源の調査は約40日を費やし、
思いがけない大物魚を発見、
仕事とは言え釣りの醍醐味を味わったり、楽しいものとなった。
帰国後社長に結果を詳しく報告したが、
事業化はどうなったか、私の考えでは難しいのではないかとだけ申し上げた。
こんな小さい島でも華僑の商店があったのには驚いた。
下手な中国語が少し通じて愉快であった。
改めて中国人はスゴイと思った。
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