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光畑京子の「終戦日記」(八) <水不足深刻> 昭和20年(1945年) 【5月6日 日曜日 晴れ】 3、4日前からお悪くて寝ていらっしゃった 吉木さんのおば様が今朝入院なさって 夕方の七時50分に永眠なさいました。 何だかうそのような気がしてたまらない。 母も8時ごろ病院に行って その様子を詳しく話してくださいました。 一番下の赤ちゃんが可わいそうだと言って泣いていました。 私も目頭が熱くなって自然に泣けてきました。 【5月七日 月曜日】 夕方からひさし振りに雨が降って雷がごろごろと鳴っている。 この雨で今まで水の出なかった所に出るといいなあと思った。 何しろ日常生活でも何でも、水は非常に大切であるから、 何処の家も公平に出るようにと思った。 【5月8日 火曜日】 私は大詔奉戴日にいつも決まって奉読される勅語を拝聴すると 急に胸がひきしまって、 必勝の信念で胸がいっぱいになって来るのである。 校長先生は今日、 努力した方が必ず勝つのであるとおっしゃった。 体操の時間に運動場の修理を行う。 ↑青島高女運動場:昭和19年卒業記念アルバムより 【5月9日 水曜日】 午前中の防空演習で地下室に避難しました。 奥の方の人がさわいだので中林先生が注意なさる。 それでもきかないので対島先生が、 2年よりも1年の方がしずかだと言ったら、 みんなやっとしずかになった。 私は2年になった甲斐がないような気がした。 これからは1年に笑われぬような立派な2年になろう。 【5月10日 木曜日】 帰ってから、浩子を抱いて益都路までお使いに行く。 途中に支那人(中国人)の露天がたくさん並んでいる。 そして、そこには人がいっぱい見ている。 何かと思って覗くと、 日本人の着物を売っていた。 こんないい着物があったならば支那人の手に渡さないで、 内地の罹災者に送ったらどんなに喜ぶだろうと思った。 無念とくやしさでいっぱいになった。
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2008年07月23日
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