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忘れ得ぬ中国の人々 <この記事は青島日本中学校第25期同窓会誌「魚山」 第13号(1996年5月)から転載させていただきました> 忘れ得ぬ中国の人々(一) 柳島俊司 1、カン主婦 私が生まれた場所は、戸籍によると中華民国青島北京路38号である。 北京路は中国人の商店街で2、3階建の家がつづき、 呉服屋、金物屋、食糧品店、文具店等、卸小売の店が軒をつらねていた。 その西端に、わが家と通運公司という日本人の会社があり、 その西は広場で、向う側には膠済線が走っており、 台西鎮に向かう跨線橋があった。 丁度青島駅から1キロ位来たところである。 ↑1930年代の北京路 ↑現在の北京路(前方左折する道路が北京路)。 38号には現在新しいビルが建っている。 カン主婦は近所の雑貸店の女房で、 どういう字を書くのか分からないし、主婦も当て字である。 母性的な面白い人だったと思う。 当時、私に年子の妹が生まれ、兄は小児麻痺で片足が麻痺し、 母親は病院通いに明け暮れていた。 丁度歩き始めた私が、一寸目を離すとどこかに行ってしまい、 手に負えなくなってきたのでカン主婦を子守に頼んだようである。 私との相性が良かったのか、どんなに泣いていても、 カン主婦が来るとピタリと泣き止み、ニコニコし出したそうである。 カン主婦は私を抱いて汽車を見に行ったり、 街を歩いたり、時に自分の店に寄ったり、 夕方になるといつも街路樹の下に立って 通りがかりの若い女工に見せて自慢していたようである。 「まあ可愛い…」と寄って来る。 そのうちに 「この中で誰が一番好き…」と、 かまう者が出て、私がいつも一番の美人を指すので 「まあ−、ませている」とひと騒ぎする。 私はその頃中国語が分かったようである。 私が少し大きくなると、カン主婦は来なくなり、こちらから時々訪ねていった。 店の入り口には1銭買いの湯沸かしがピーとなっており、 (注:参照) 中には珍しいものがいっぱいあり、うどんを作る機械があって、 粉を持って頼みに来る人がいると旦那が見ているうちにうどんを作る。 いくら見ていても飽きなかった。 隣の通運公司に塩原さんという若夫婦がいて、結構相手になってくれたので、 いつも行って、「なぜ?」、「どうして?」、「それからどうして?」と、 聞いてきりがないので、それは学校に行ってから聞きなさいと言われた。 それから後、2〜3百メートル離れた田中鉄工所に、 正ちゃんという一歳上の子がいて行き来して遊ぶようになったが、 近所の中国人の子供とも喧嘩したり仲直りしたりして遊んでいた。 家には連れて来なかったが、中国人の家に遊びに行ったこともあるようだ。 妹と一緒に行って、 おやつに生の芋が出て2人で一生懸命にかじって食べて帰ったところが、 妹が家で吐いたものだから、「お前、何を食べさせた」と怒られた覚えがある。 ↑現在の北京路(2007年) 5歳頃、東の端の台東鎮に近い奉大路(現遼寧路)84号に引越した。 父はそこで、今までしていた繭の輸出の他に木工業を営むようになった。 近所には青島絲廠という大きな製糸、紡織、染色などの会社があり、 そこの社宅に日本人の子供が大勢いて、 毎日行ったり来たりして遊んでいたが、母はその前に長男(兄)を亡くし、 私を心ならずも野放しにしていた思いからか、しつけは厳しくなった。 3百メートル位離れた坂の上の家に、同年の宮沢信雄さんがいて、 2人で第一小学校前の幼稚園や桓台路の基督教会の日曜学校に通った。 小学校1年か2年の頃、 カン主婦の旦那が近くに来たからといって訪ねて来たとき、 私がどうしてもカン主婦に会いたいといってきかないので、 やむなく旦那が自転車の後に乗せて連れて行ってくれた。 街並も店も変わっていなかったが、 店に入ると狭くて雑然として何となくほこりっぽく、 カン主婦がニコニコして話しかけてきたが、 言葉を忘れて「うん」とか「あ−」としか答えられず、 ただ恥ずかしく小さくなっていた。 カン主婦も完全に日本人の子になってしまった私に それ以上近寄ろうとはしなかった。 ↑北京路と河北路の交差点(2007年) ○注:「店の入り口には1銭買いの湯沸かしがピーとなっており」
昔の青島では、麺類などを売っている店でお湯を売っていた。 近所の人がやかんを持って買いに行く。 店の出入り口の上に丸い筒状のものが突き出ていて、 湯沸かし器の蒸気を利用した笛がピーと鳴っていた。 のどかな風景であった。 |
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2008年11月15日
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