|
忘れ得ぬ中国の人々(二) <この記事は青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」 第13号(1996年5月)から転載させていただきました> 忘れ得ぬ中国の人々(2) 柳島俊司 2.胡 先 生 (フゥ・センション) 胡先生は私の生まれる前からのわが家の番頭である。 “胡須園”といい、朝鮮銀行に勤めながら青島学院の夜学を卒業し、 日本語の読み書きヽ発音も正確で、字も毛筆・ベン字ともに美しく書いた。 経理は長年間違いなく果たし、父の全幅の信頼を得ていた。 私が教科書やノートに名前を書いて貰いに持っていくと、 毛筆できちんと書いてくれた後、ペラペラとめくって読んでくれ、 さあ勉強しなければという。 英語など中国人独特の発音で“R”を読むが、 後年米人教師の発音に似ていて、改めて敬意を感じたものである。 ↑1940年代の遼寧路(旧奉天路)。この先右にカーブして台東鎮に至る。 父の木工場には、大工が40人位、職工が10人位いたが、 胡先生は日本人の技師との間にたって意志疎通に努め、 双方の尊敬と信頼を得て皆から胡先生と呼ばれていた。 何かトラブルが起こると、工場で大きな声でののしり合うのが聞こえてくるが、 胡先生が出ていくと暫くしてそれがおさまる。 戦局が厳しくなりインフレが進んでくると、 時たま工場で機械が一斉に止まり、口々に何かどなっている。 今から思うとストライキだったが、胡先生の力で半日もすれば解決し、 日を越すことは全くなかった。 昭和19年も押し詰まり、戦況が日ごとに日本に不利になって来たある日、 胡先生は私の顔を心配そうにのぞき込み、 「俊ちゃん、顔色が悪いがどうしたの?」 と開いてきた。 私は暫くして 「そうかな。別にどうってことはない」 と言いったものの、胡先生にはいつも心を見通されてしまうのと、 二人だけだったので、 「日本は戦争に敗ける」 と言うと、 「そんなことまだ分からない」 と慰めてくれた。 ↑神社前で戦勝祈願をする女学生。 さらに私が 「俺は戦争に行って玉砕する。それが国の役に立つなら人生20年でかまわない。 しかし、お父さんやお母さん、妹はどうなるだろう・・・」 と決意を述べると、胡先生は 「国が敗れても、人は死なない。死んだらだめだ」 と強く励ましてくれた。 胡先生は、踏みにじられても荒らされても、 したたかに生きてきた中国民衆の智恵を私に吹き込んでくれた。 私は国が破れても生き延びられるとは思わなかったが、 誰にも言えなかったことを吐き出して、何かすっきりしたことを覚えている。 昭和20年6月、私は旅順に向けて出発、 7月には青島が戦場になるということで、 病気の母を連れて父と妹は北京に疎開した。 ↑旧青島駅(1991年)。 終戦後誰も青島に帰れなかったが、胡先生は後始末をきちんとして、 国家補償のための資産証明書まで事細かに書いて、引揚げの人に託してくれた。 その後、胡先生が露店で煙草や南京豆を売っていたという噂を聞いたことがあるが、 音信は途絶えたままである。 国交回復後、手紙を出したことがあるが梨のつぶてだった。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2008年11月18日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



