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忘れ得ぬ中国の人々(三) <この記事は青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」 第13号(1996年5月)から転載させていただきました> 忘れ得ぬ中国の人々(3) 柳島俊司 3.姚 志(ヤオ・チイ) 姚志はわが家のボーイで、昭和16年頃(1941年頃)に雇われてきた。 私より1歳上だったが、小柄で私と同じ位の背丈、 紅顔に目がクリクリとしていて、少し反っ歯、頭は角刈りにしていた。 15歳位なのに料理が得意で、 ギョウザなどを作るときは得意気に包丁をトントコトントンとならし、 実にうまいものを作った。 それに白菜、ねぎ、しょうが、ニンニク、豚肉等を細切りにし、 油でいためて醤油で煮る料理・・・なんというのか知らないが・・・ 実にうまかった。 女房にいくら説明してもできないし、 どこの中華料理店でもお目にかかったことがない。 大東亜戦争が始まり、 マレー半島、シンガポール、インドネシアと着々占領していた頃、 私が得意になって地図を見せながら戦果を披露し、 大東亜共栄圈の理想を話し、 米・英・蘭を追放し植民地を解放して アジアの諸民族が手を握って共栄圏を完成すれば、 皆が幸せになれると説くと、 本当に喜んでくれた。 ↑戦勝に酔う日本人居留民の旗行列(1941年ごろ)。 私が鉄棒が不得手だったので、 庭に鉄棒と砂場を作り、“飛行機とび”や“蹴上がりの練習をしていると、 そばて見ていて大抵私より早く出来るようになる。 悔しいので砂場で相撲をとると今度は姚志がかなわないので、 悔しがって本気になってかかってくる。 2千メートル競走の練習にもついて来るし、 兄弟みたいなもので余り親しくなり過ぎて、 生意気だといって殴ったり蹴ったりひどいことをしたが、 手向かって来ることはなく、 4〜5日そばに来ないだけで、何時の間にかまた仲直りをしていた。 姚志は父が亡くなり、母と弟妹が滄口に住んでいて、 月に一度・・・多分給料日の後・・・必ず自転車で帰っていた。 昭和19年に姚志は18歳になり、名を姚保安と改め、 わが家をやめて華北交通の鉄道警備隊に入るという。 私は治安も悪くなってきているので、 「好人不当兵」という諺があるではないか、 仕事なら工場の方に変わればよいと言って引き止めたが、 聞かずにやめていった。 その後一度、高密駅にいるといって遊びに来たが、 体もがっちりして顔付きも厳しくなっていた。 きっと家族のために収入のよい警備隊に入り、 身の安全を願って名を“保安”と改めたのだろう。 ↑昔の高密駅。 旅順に行く際、高密駅で探したが見当らなかった。 戦後を無事に幸せに生きていることを願うのみである。 (終) 「忘れ得ぬ中国の人々」を終ります。 ご愛読ありがとうございました。
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2008年11月21日
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