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青島の街角で <この記事は、青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」 第24号(2000年1月号)より転載させていただきました。> 青島の街角で 楠田 寿江 1995年6月、札幌の小林恵美さん、大分の池辺禎子さんと三人で、 一泊で行ける最後の船便で懐かしの青息へ行きました。 翌日、船上から青島の山や街が目の前に迫って来た時は 夢を見ているのではないかと、 呆然と甲板に立ち尽くしてしまったものでした。 翌々日、私達3人と他に同行の人とで、 お互いの旧住所や勤務先、女学校、小学校、旧青島神社などを見て廻ろうと 通訳の人を頼み、タクシーをチャーターして市内をゆっくり見ることにしました。 青島へ着いてから興奮と感激の連続の3日間の私は、 完全に足が地についていないような状態でした。 中山路(山東路)から市場三路の郵便局の前まで来たとき、 誰が言うともなく車を下りて後からついて来てもらい、歩くことにしました。 聊城路(中の町)に続く大きな石段が目の前に見えて来て、 右側の電気館は外から見る限り、昔のままの姿で残っていました。 ↑今も残る電気館(2006年) 電気館と岩崎呉服店の間の小さな石畳の坂道もそのままで、 思わず足早にその坂を登りつめて李村路に出ると、 青島映画劇場が50年前と同じ姿を見せて私を迎えてくれました。 ↑李村路に登る坂道。手前が李村路(2006年) ↑青島映画劇場跡(2006年) 総務部になっていて、毎日私か通勤していた事務所もそのまま・・・ 思わず訳を話して中に入れてもらおうかと、 入り口迄行って場内をのぞいたのですが、 色々なためらいと、同行の人もいることなので、 暫く立ちつくしていたけど、 諦めて中の町(聊城路)の方へ歩いて行きました。 その時です。 後ろから五十半ば過ぎの男の人が追っかけて来て私に、 「您貴姓?」(貴方のお名前は)、 私は思わず 「我姓三浦」(私は三浦です)、 「対々、対々」(そうです、そうです)、 興奮気味にその人は話しかけて来ましたが、 私の単語だけの中国語はここまでで後はもうチンプンカン。 通訳の張女史がこれ叉上気して、彼が、 「自分の父は青島映画劇場で映写技師の主任をしていた李で、 自分も映写技師をしていたが今は劇場の前で店を開いている。 貴女が懐かしそうに劇場を眺めているのを見て、 もしや三浦さんの家の人ではないかと思い追っかけて来た。 遭えて本当に嬉しい」 と言っていると通訳してくれました。 青島に来てからの3日間の、 胸の奥に詰まっていた熱い想いが一度にどっと噴き出て、 李さんと何度も握手しながら、流れ出る涙をどうすることも出来ませんでした。 二人の友も、同行の人もみんな泣いてくれて、 「お父さんがよくなさってたのね」 と、言ってくれました。 再会を約して別れた李さんには、 2年後次兄と再び青島を訪れた折にご足労願って 電気館、青島映画劇場、東洋劇場の三劇場を案内してもらい、 三劇場の経理(支配人)の方々にも逢え、 ゆっくり場内を見せてもらい、交流を深めることが出来ました。 追っかけて来で声を掛けてくれた李さん。 若くしてこの世を去った末兄の友人の王さん夫妻。 通訳の蒋青年等懐かしい青島の友にもう一度逢いたい、 そして忘れがたい青島の街並みをゆっくり歩いてみたい、 と無性に思うこの頃です。(終)
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2008年11月06日
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