青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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20年前の鄒平路(元我が家)



博興路小学校を辞して、ぶらぶらと鄒平路へと向かいました。

鄒平路の元我が家は、ずいぶん薄汚れていましたが、

確かに残っていました。

イメージ 1

↑これが鄒平路の元我が家(1988年)

イメージ 2

↑この2階部分が私たちの住み家だった。




私たちが住んでいたのはこの建物の2階です。

1階はアマの家族が住んでいました。


私と姉は、この家に住んでいるおばさんを見つけ、

いきさつを話してアマの消息を聞き出そうとしましたが、

まったく分かりません。


せめて2階の元我が家の内部を一目見たいと思いましたが、

階段の上には大勢の中国人が物珍しそうに顔を出しています。

今はたくさんの世帯が住んでいるのでしょう。


家の中は、真ん中に広い廊下があり、左側に畳みの部屋が二つ、

右側にトイレ・風呂場、台所、書斎、小さい寝室、

廊下の突き当たりに物置があるはずでした。


今はこの部屋の数だけの世帯が住んでいるような気がして、

私たちは家に中に入るのを諦め、外からしばらく眺めることにしました。

イメージ 3

↑周村路側から見た元我が家。




私が小学校5年生の時(1942年)、2年ぶりに青島に戻ってきたのですが、

そのとき初めてこの家が新しい我が家であることを知りました。

母と長兄はすでに亡く、次兄は内地の中学にそのまま残っていました。


家族は減ったとは言え、

幼心にここが私の永遠の住家であることを疑いませんでした。



ふと気がつくと、私の周りに噂を聞いた中国人が集まっていました。

何を言っているのか分かりませんでしたが、

昔ここに住んでいた日本人やアマたちの情報を、

ありったけ私たちに知らせようとしている気持ちが伝わってきました。


昔と変らぬ青島人の人情の温もりを胸に、

私たちは周村路をゆっくりと旧第一日本小学校に向かって歩きました。

イメージ 4

↑周村路側の道路で近所のおばさんと談笑する姉(1988年)。




私はその後90年にも、アマたちの情報を尋ねてこの家を訪れました。

その時は日本語の上手な中国人と一緒でしたが、

アマたちの消息は手がかりさえ掴めませんでした。


イメージ 5

↑90年にもう一度訪ねた元我が家(1990年)。

イメージ 6

↑再開発で壊される寸前の我が家(1990年)。



そして92年にはこのあたり一帯は再開発され、

アパート群が建ち並びました。

元我が家の一階は大きな楽稜路市場になって、博興路市場が収容され、

私が住んでいた家は、その存在の空気すら感じることは出来なくなりました。

イメージ 7

↑現在の鄒平路。左側坂の途中に我が家があった。



※前回の地図に誤りがありました。
 “博興路の元我が家”の位置は、臨淄路と泰山路の間でした。
つまり、鄒平路と泰山路の間にもう一本臨淄路がありました。
姉に指摘され、博興路小学校の近くにお祖父さんが住んでいたという
私の生徒に確認しました。

イメージ 8

↑正しい地図。

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