青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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昭和16年12月8日の青島



<この記事は、青島日本中学校第25期同窓会誌「魚山」

第14号(1997年10月号)より転載させていただきました。


67年前、

太平洋戦争開戦の当日、青島はどんな様子だったのか、

その雰囲気だけでも感じ取っていただければと思います。

原題は「黄色い風」>


イメージ 1

↑昭和14年(1939年)の青島、軍艦旗制定50周年を祝う(現中山路)。




 そ の 日

             井上 英二

昭和16年(1941年)12月8日、

その日の青島市は異常な空気に包まれていた。

冬期の汽車通学を認められていた私は、

午前7時半頃青島帖に着いた。

イメージ 2

↑1990年の青島駅。




駅は陸軍憲兵隊により物々しい警備がしかれていた。

和製中国語で怒嗚りあう憲兵の腕章が目に赤く焼き付いた。

警備将校に挙手の礼をしながら駅の構外に出た。

来るべきものがついに来たという切迫した空気を痛感した。

道路脇には雪が赤黒く積み残り、

雲間に青空を見せる青島帖は、吐く息が白く凍てる。

四方の家を出る前から、ラジオは軍艦マーチを合間に、

日米開戦を告げていた。

ドイツ時代の重厚な建物群を見つめつつ広西路に出る。

イメージ 3

↑現在(2007年)の広西路。




見慣れた青島特別市政府の付近には

アメリカ、英国、ドイツ等の領事館が建っている。

いつもはそれぞれの国旗を掲げその威容を誇っていたが、

今日は違っていた。

既に、ドイツを除く当該敵国の国旗は降ろされ、

海軍陸戦隊の兵士が銃に着剣し直立不動の姿勢で、

その領事館正面玄関に立っている。

中学生の我々にも、重大な歴史の転換期に遭遇したとの実感が湧いて来た。

大野校長から時局の説明と日本人中学生としての気構えについての訓示があり、

一日中、ハワイ真珠湾攻撃の話題でもちきりとなった。

そして、学校ではしばらく英語の授業が途絶えた。

すべての英語教師が通訳として軍に動員されたとの噂が出た。

この日を境に学校の生活が一変した。

英語の授業は再開されたものの、

敵性国語を習う必要性についてその是非が議論された。

軍事教練の強化が行われ

徐々に他教科の時間が失われるようになった。

また、奉仕活動として郊外にあった陸軍病院の

道路構築等の勤労奉仕が課せられるようになったのもその一環である,

しかし、この程度の奉仕はあくまで泰仕作業であり、

このあと本格的に勤労動員がかけられることへの序曲に過ぎなかった。

その日を境に日中両国民以外の住民の姿が町から消えた。
 
イメージ 4

↑元青島日本中学校(現海洋大学)(2007年)。

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