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20年前、市場周辺は再開発中だった ↑再開発中の市場周辺。白い建物は新しい市民病院(1988年)。 上海路角の包子屋から「中の町」(聊城路)まではすぐです。 「中の町」は昔、日本人商店街として親しまれ賑わっていたところです。 その「中の町」から市場方面一帯は再開発中でした。 建物はすべて取り壊され、まるで野原です。 のっぺらぼうの野原の中をどう歩いたか覚えていませんが、 写真だけは何枚か撮っていたようです。 ↑再開発中の市場1路、2路辺り。(1988年) ↑同上。 途中トイレに行きたくなって工事の人に訊ねると、 取り壊しを免れた建物の中のトイレを案内してくれました。 今思い出すとその建物は、 現在も保存されている、横浜正金銀行の裏の住宅部分だったようです。 さらに歩くと、昔よく行った市場が残っていました。 一階は肉や野菜売り場で、子供にはあまり馴染みがありませんでしたが、 二階には文房具屋がありました。 市場の中に入って、 二階に上がる階段の手すりを見た瞬間、 懐かしさが込み上げてくると同時に、大きな衝撃が体内を走り抜けました。 ↑懐かしい市場。(1988年) 戦後も“人民市場”として、引き続き市民に親しまれてきた。 石造りの手すりの汚れ具合が、 43年前と全く変っていないように見えたのです。 日本の戦後の43年は、破壊と変化の時代でした。 旧いものはすべて破壊し尽くされ、新しいものに生まれ変わりました。 それ比べて、ここ青島では、43年間、時間が止まったままだったのです。 そしてそれは、 少年時代にタイムスリップしたような安堵感さえ感じさせたのです。 「私の居場所はやはりここだったのだ」 万感胸に迫る思いを吹き消そうとしても消すことができません。 ↑再開発中の市場3路。「電気館」も見える。(1988年) 父にねだって「風の又三郎」を見た「電気館」も残っていました。 ↑1988年の「電気館」。 その「電気館」の通りを中山路のほうに歩いて行くと、 「水餃! 水餃!」 と呼び込みをやっている餃子屋がありました。 ほかにも食べ物屋や屋台が何軒か並んでいました。 ようやく活気溢れる中国らしい生活風景に触れることができたのです。 「青島に来てよかった!」 この日を境に、私の第二の人生の目標が決まりました。 「将来、絶対青島で暮らそう。 そして青島のみなさんに恩返しをしよう!」 そう心に決めたのです。 一日中歩いてもなお疲れを知らない私と姉は、 中山路(旧山東路)の坂道を上がって、ようやく帰路に着きました。 ↑1988年の中山路(旧山東路)。 ↑中山路の映画館前(1988年)。(昔、「ハワイ・マレー沖海戦」などを見た) |
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2008年12月18日
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