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霧の中から(2)
井上 睦三
◆ 第一話 「馬の尻尾の毛」 7月の始めの梅雨の晴れ間、 雲の切れ目からサーッと太陽が差し込むと 木々の葉合いから一斉に蝉の合唱が始まり、夏本番の到来を告げる。 夏がくると思い出すのは少年の頃。 濃霧、霧笛、青い海、ヨット、水平線、入道雲、 加藤島、灯台、桟橋、アカシヤ、赤い屋根、 カトリック教会、時計台、信号山・・・等々、 青島の光景が連想的に瞼に浮かぶ。
↑小魚山より桟橋方面を望む(2005年)。
父の仕事の関係で、私達一家が満州の新京から青島へ移住したのは昭和13年5月、 私が小学5年生の時たった。 住居は金口一路で 海浜公園の赤門の近くの丘に建てられた洋館造りの家たった。 青島第二日本尋常小学校に転入した。 12年7月、支那事変が始まって日本海軍が青島を占領し、 半年も経っていない頃だったので学童の数も少なく、 30余名ほどの男女共学の1クラスだけだった。 ↑金口一路。右側(海側)が奇数号の家(2008年1月)。 筆者の家は23号だそうだから右側の先のほうになる。 ■ ■ 転校して間もない頃は、まだ同級生と馴染めなかったし 家と同じ方向の者も少なく、しばらくは友達もなく淋しい思いだった。 しかし、海が私を慰めてくれた。 今まで満州の大陸のど真ん中で育った私には、海が珍しく、 しかも家の近くに海岸がありいつでも行けるのが嬉しかった。 学校から帰るとランドセルを置くや否や海浜公園へ遊びに行ったものだ。
↑海浜公園(現魯迅公演)にある水族館(2005年)。
水族館の下の磯辺には、潮が退くと岩の窪みの溜まりがあちこちに現れてくる。 そこには色鮮やかな海藻がさざ波にゆらゆらと漂っている。 小魚の群れが、キラキラと白い腹を輝かせながら 藻の茂みから茂みへと泳いでいる。 イソギンチャクが触手を招くように伸び縮みしている。 ヤドカリが忙しく勤いては仲間と鉢合わせし、 眼をギョロつかせて睨み合っている。 そばで蟹が行司のように手足を上げ下げしながら口から泡を吹いている。 少し離れた岩肌に海星(ヒトデ)やウニや巻き貝がへばりついて ヤドカリの格闘技を見物しているようだ。 私は岩から岩へ飛び渡りながら窪みを覗き、 なにか珍奇な獲物がいないかと探し、 疲れると高い岩の天辺に座り辺りの景色を見渡す。 ジヤンクが茶色の暖簾のような帆を、ゆったりと風に当てて波にゆれて行く。 二本マストの客船が煙突から濛々と煙を吐きながら波を蹴立てて素早く通過し、 どんどん遠ざかり、やがて船影がぼやけて水平線に霞み、 煙だけが名残惜しく微かに漂ってついには消えてしまうのを、 時の経つのも忘れて眺めていた。
↑海浜公園(現魯迅公園)の岩場(2005年)
■ ■私が住んでいた家の隣は、 小山田さんと言ってご主人は確か天津の税関に勤めていて 奇麗な奥さんが留守宅を守っていた。 子供が3人で上の女の子は七つ、中は男の子で四つ、下が二つの女の子だった。 女性の中国人使用人が3人の子供の面倒を見ていた。 3人とも可愛い子供で、私もよく話相手になっていた。 やはり男の子の晃ちゃんが私を見つけては 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と一番懐いていたように思う。 声が素晴らしく可愛くて澄んでいたので、いつまでも印象に残っていた。 昭和20年敗戦、引揚げることになり、 小山田さん一家とも音信不通になってしまった。 それから20年、日本が戦後復興を終え高度成長期に入った頃、 繁華街はもちろん各家庭のラジオやテレビから、 流行歌がじゃんじゃん流れるようになった。 和田弘とマヒナスターズのグループが、 ハワイアンの甘いメロディーを奏でながら 「愛しちゃったのよ」とか「法善寺横町のコイさん」 を歌っていたのもその頃だった。 そのメンバーの一人で、独特の裏声で歌う“三原さとし”が 青島育ちの“小山田晃”だと知った時にはさすがに驚いた。 テレビに写る画面を見つめると確かに彼だった。 四角ばった顔と柔和な目元は 確かに幼い頃の面影を残していたので懐かしく感じた。 私の兄が彼と再会して分かったのだが、 その頃から 「人気を維持するのは大変です。 毎年、レコードを万の単位で売らなくては世間から忘れられてしまいます」 と苦労話を語っていたそうだ。 (第一話つづく)
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2008年12月27日
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