青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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父との魚釣り

第20章 父との魚釣り



昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

その年には「国民学校令」が出て、私は国民学校4年生となり、

金口一路の最初の家に移った。

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↑最初の金口一路の家:99年11月



開戦直後には外国人全員が腕に国籍を明示した腕章をして街を歩いていた。

何千人いたのかは分からない。

英米仏独伊蘭など国籍は多様で、同盟国人も敵国人も私たちの目には同じだった。

学校では「戦争をしているのだから、スパイに注意しなければならない」

と教えられた。といって私達がどう注意したらいいのか分からない。

向こうから外国人が歩いてくる。

もし毒ガスを振りまいていたら殺されるから、すれ違う時は呼吸しないでおこうとか、

サングラスをした奴は怪しい、など勝手に幼稚な想像していた。

子供たちにはスパイが実際に怖いことは何もないからである。

スパイ対策運動の一環としてだろう、青島の国民学校全児童から標語募集をした。

私は「不平不満はスパイの好餌(こうじ)」と書いて、

それは学校代表の一つになったが、

一等入選は「不平不満にスパイの笑顔」だった。

これには負けたと思った。

誰の作かは分からないが、何よりも「笑顔」は絵になった。

国民学校5年から海洋少年団に入った。

ひと月に一、二回は日曜返上の訓練がある。

ここでモールス信号を習ったおかげで、

中学2年の勤労動員で陸軍の通信隊に入った時は楽だった。

海軍のカッター(ボート)を漕いだり、軍艦に乗せてもらった。

それよりも記憶に残っているのは元旦の「初日の出参拝」である。

朝6時に青島神社集合だから5時ちょっと過ぎには家を出なければならない。

真っ暗の道を一人で歩いて、中国人街も通る。

神社に参拝してから山の頂上に登り、そこで初日の出を直立不動の姿勢で待つ。

着ているのは白い水兵服。夏物で半ズボンだ。

オーバーなんかは着てはいけないから体の芯まで冷えてくる。

それでも我慢しながら、中国人が楽をいている時、

日本人の我われはこんなに頑張っているから強くなるんだ、

と自分自身に言い聞かせた。

しかし海洋少年団は強制ではなかった。

だから父が釣りに連れて行ってくれる時は休んだ。

釣りの帰り道に少年団の制服を着た友達と会うことが何回かあった。

「サボったな」と言われるのは嫌だったが、

それで釣りを犠牲にする気にはならなかった。

金口一路の家は海岸から坂を登った頂上近くにあって、

海水浴場とその先に突き出た岬がよく見えた。

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↑海水浴場と岬がよく見えた:写真は2007年写す



毎日見ていて、潮の満ち引きには大小があることがよく分かったし、

月夜の晩に海がきらきらと盛り上がっているのも見た。

小さな魚の群れが大きな魚に追われて逃げまどっているのだ。

父との釣りでは遠出をすることが多かった。

いろいろ情報は仕入れていたのだろう。

青島の海岸は大雑把に言うと山手区域と下町区域に分かれていた。

下町風の海岸は中国人街で、市内の下水道があって汚水が流れ出している。

砂や石の多い海岸でたいてい濁っており、

ハゼやカレイ、クロダイの小さなのが釣れた。

山手風の海岸は海浜公園もあって景色がよく水もきれいだった。

私が一人で毎日のように釣った金口一路の家の前の海岸もそうだった。

海底は岩でそこから長くただよう藻が生えている。

アイナメやメバル、季節によってクロダイが回遊してくる海だった。

イメージ 3

↑海浜公園:写真は2007年写す



ある日、父とこの山手と下町の海岸の境目付近に行った。

砂地にごろ石がころがっていて岩もあった。

着いた時は潮が満ちてくる途中でまだ浅かったが、濁っているので釣れそうだった。

ハゼがすぐ掛かってきた。

なんだハゼかと思って3匹目位を上げようとしたとき、

突然、途中まで軽かった竿がぐーんと重くなった。

凄い。両手で支えている竿が折れそうになる。

生まれて初めての強い引きだ。全力で手許に引き寄せる。

「大物だ。ゆっくりゆっくり」と横で見ている父が応援する。

海面まで来て魚体が見えたと思った瞬間、急に軽くなって小さな魚が宙に舞った。

針に掛かっていたのは15センチ位のハゼだった。

これっぽちのハゼがあんなに引くはずがない。

ハゼは追い食いされたのだ。

私の餌に食いついて釣り上げられようとしていたハゼに、

別な大魚が食いついたのだ。

よくは見えなかったが大ヒラメのように見えた。

「ヒラメだったと思うよ」というと、

父は「もう一度掛けてみよう」と、道具箱から沖釣りの頑丈な道具を取り出した。

大きな針にまだ生きているハゼをつけて投げ込んだ。

しばらくして「来た、来た」と父の声も緊張している。

ゆっくりと数を10ぐらい勘定した。そして大きく引っ張った。

「掛かった」と糸をたぐっている。今度こそ釣れる!と思った。

が、手許まで来てはっきりヒラメと分かって、海面から引き揚げようとした瞬間、

また逃げられてしまった。

針にはもう死んでしまったハゼしかついていなかった。

「まだ食い込ませ方が足りなかったのかなあ」と父は残念がっていた。

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↑海水浴場とその先の岬:写真は2007年



もう一回は我が家から見える岬の更に先の、波の荒い深場に行った時。

この日は父が大ウナギを釣り上げた。

竿を大きくしならせて10分ぐらいかけて、

手に取ったのは直径5センチ、長さ70センチはありそうな超大物だ。

網の魚篭に入れて運ぶのも重かった。

釣り場を変えたとき、私は潮だまりに小便をした。

それを見た父は魚篭の紐を岩の突起に掛けて、波の寄せる海面に入れた。

すると何としたことか網目が破れた。

そこから大ウナギがするすると大海に逃げ出していく。

見ていてどうすることも出来なかった。

父の「今夜は蒲焼で一杯・・・」の夢もおじゃんにしてしまった。

「あんな所で小便なんかするからだ」とさすがに父は不機嫌だった。

父とはいろいろな釣りをした。沖釣りで大物を上げたこともある。

父の友人の領事達と一緒に車で往復して、贅沢な釣りもした。

しかし、よく覚えているのはなぜか失敗したことが多い。

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↑手前が海浜公園で遠くに見えるのが膠州湾の対岸



私が大人になっていちばん釣りをしたのは伊豆大島である。

船釣りでマダイ、シマアジ、カンパチなどの大物を釣った。

3、4キロのものを10匹も上げたことがある。

しかし、いつまでもよく覚えているのは、釣り逃がしたときのことだ。

ぐんぐんと来る手応えを感じながらやりとりして、

もう一歩のところでばらして(逃がして)しまった。

手応えだけで魚体は見ていない。その時は口惜しくてしょうがない。

一体どんな大物だったのか、どこが下手だったのか、

幻の大魚への想像と反省が湧き上がってくる。

その想像の部分がいつまでも頭の中に残っている。これがいいのだ。

会社で不愉快なことがあって眠れない夜など、

この思い出を頭の引出しから出すと、それが強烈で、

たちまちいやな気分を追い出してくれるのである。

釣り上げた魚は現実に見てしまうので、想像力の働く余地がない。

負け惜しみではなくて、魚釣りは本当は釣り逃がした方が楽しいのかも知れない。

それは心の財産になっていつまでも残るからだ。

こういう楽しみを教えてくれた父に感謝している。

海洋少年団の訓練をサボるだけの価値があったと思う。

私もその喜びを自分の息子に伝えなければならなかったのだが、しなかった。

仕事が忙しい。東京勤めで、近くにいい釣り場なかった。と言訳はあるが、

心の財産を残してやれなかったことを済まなかったと思っている。

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