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第22章 大陸育ちの地下水脈 ↑青島市街を望む:年代不詳 昭和20年の年末、私達家族は父を残して日本に引き揚げた。 領事館勤務の父は青島経由の邦人引き揚げが全部終わるまで仕事があるので、 家族だけで先に帰った。 中学2年の私の目に映った日本の印象は三つあった。 引揚船は米軍の上陸用舟艇LSTである。 戦車などを運ぶバレーボールのコートほどの広さの船底に四日間、 ぎゅうぎゅうに押し込められて横になることも出来ないまま、 やっと鹿児島湾に入った。 波が穏やかになってほっとしながら、甲板から初めて日本の国を眺めた。 その第一印象は、山が小さいことだった。 九州山地の霧島山や高千穂の峰などと思われるが、 山並がコセコセと箱庭のような感じで、 ああ、やはり小さな国に帰ってきたのだと実感した。 中国大陸の丸みを帯びてゆったりした山々や、 満州で見た地平線が思い出されて比較していた。 この思いはその後もかなり後を引いて、大学を出て就職し、 自費で旅行が出来るようになった時に真っ先に行きたくなったのが北海道だった。 狩勝峠から十勝平野を望む地平線が見える、ということを知ったからだ。 日本で地平線が見える数少ない場所の一つだった。 今か今かとずっと外を眺めているうちに見えてきた。 車窓から見るだけでは満足出来ず、 停車した時ホームに降りて地平線に全身をさらして眺めた。 久しぶりの雄大さに、これだ、これだと感激した。 “自分のいるべき場所は本当は東京ではなくて北海道ではないのか”。 鹿児島湾で初めて日本の山を見てから10年以上が経っていた。 ↑現在は青島・下関間にフェリーが通っている(下関港風景:2007年) 二番目に驚いたのは、上陸した港で日本人が肉体労働をしていることだった。 道路工事をしたり荷馬車を引いている男達は、まぎれもない日本人だった。 物心がついてからは、中国大陸でそんな日本人は見たことがなかった。 それは中国人、朝鮮人、時には白系ロシア人のすることだった。 国内では当然のことなのだが珍しくて、 ふーん、日本人もそういうことをするのか、と考え込んだ。 しかし、そんな感想はすぐ吹き飛んでしまった。 帰国後は自分自身が学校の休みの日に農業を手伝わなければならなくなって、 朝の6時から夜遅くまで、 田んぼに這いつくばって麦の畝作りや草取り、田植等をした。 腰をかがめた姿勢で無限に続く労働は、 青島で見た中国人の一輪車よりも辛いと感じられた。 ↑青島市街の眺め:年代不詳 三番目の印象は、熊本の農業をしている父の兄の家に落ち着いてからである。 家の前を村の人が通る。 「どけ(どこへ)行くとな」 「うん、そこまでたい」 「なんばすっと(何をしに?)」 というような会話が交わされる。 外地ではそういう会話は全く聞かなかった。 隣近所はほとんど中国人のせいもあったが、 そんな個人的なことを質問され、適当に答えるというやり方は初めてで、 子供心に、“どこへ行ったっていいのに、本当に余計なお世話”と反撥したものだ。 そういう中国にいた時とは異なる人間関係を、転入した熊本中学でも経験した。 体操の時間に棒倒しという競技をした時である。 青島でやっていたように私は棒を取巻いて守っている人垣を全力で駆け上がって 棒にしがみつき、倒そうとした。 私に肩や頭を踏みつけられた者は痛かったかもしれない。 棒倒しをすれば当然のことなのだが、 気がつくとそういうことをしているのは私一人だった。 他の連中は人垣の周りをうろうろして、 個人的に一対一で適当な範囲の力でつかみ合いのようなことをやっている。 体操の時間が終わって「お前、俺の頭を踏んだな」などとどやされた。 勝つために全力を尽くすというスポーツ精神からは考えられない、 妙な個人的感情に取り巻かれる感じがした。 ↑棒倒し:青島中学運動会:1936年 青島中学では同じことをして何ともなかったのが、日本ではからっとしなかった。 先に青中から陸士に入った石橋さんの文章の中に、 幼年学校出身者から差別を受けた話があったが、 それに似た内地と外地の感覚の違いを私も経験したのである。 小学校に転入して妹達も、 着ている服の違いや、熊本の方言を話せないことでいじめられたようである。 しかし、いじめられたことは家に帰って父母にも兄弟にも話さなかった。 それ以上に辛い飢えとの戦いがあったこともあるが、 当時の引揚者の子供達はよほど腕力の強い者でない限り、 いじめられた経験をもっている。 それでも泣きごとを言わなかったのは、 日本は少しでも毛色の変わった新参者はいじめる国だと理解して、 そういう国に帰ってから自分でそれなりに対処するのが当然と思っていた。 日本がつまり外国だったのだ。
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2008年05月20日
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