青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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第18章 青島 家の周りの中国人との接触(二)




黄台支路の家には、

20歳前後の若いボーイ(年齢に関係なく男の使用人、女性はアマと呼んだ)がいた。

マントウ(小麦粉の蒸しパンのようなもの)を作るのが上手で、

店で売っているのよりも美味しかった。

セミが鳴き始める夏に、このボーイは鳥もちの作り方を教えてくれた。

小麦粉を何も混ぜずに水でよく練ってから何度も水洗いする。

白い水が溶けて全部がなくなりそうになるが、

ごく少量、弾力性のあるものが少しずつ残って溜まる。

水洗いしても白く濁らなくなったら出来上がりだ。

始めにあった塊の百分の一位の量の、

白くて粘っこくて噛んでいるガムのようなものになる。

それを竿の先に回しながら、細く薄くつけていく。

そっとセミの羽に近づけると一発必中、

必ずジージーと鳴きながらばたばたしているのを取りこむことが出来た。

もし鳥に近づけたら、毛について捕えることが出来ただろう。

やってみたが鳥はカンがよくていつも逃げられた。


私はこのボーイが好きで、ボーイ部屋にもよく遊びに行った。

同じ建物にあるが入り口は別で、夜、仕事が終わってボーイが帰ると、

我が家のドアにはカギが掛かり入れなくなる。

朝の7時になったら母が鍵を開ける。

するとボーイが来て朝食の支度をすることになっている。

ボーイ部屋は壁が剥き出しのコンクリートで装飾は何もなく、寒むざむとしている。

ベッドと衣類を入れるカバンが隅に置いてあるだけで、他に家具はない。

ボーイは壁に漢詩を落書きしていた。

五字ずつ、あるいは七字ずつ、何行か並んでいる漢字は読めなかったが、

詩人の有名な詩だったのか、あるいは自作だったのかは分からない。

今に見ておれ!

と青雲の志を秘めたような、きりっとした顔の青年だった。


父は年に一、二回、家族を中華料理屋に連れて行ってくれた。

いつもフルコースで、私は初めに出てくるのを食べ過ぎて、

後からのご馳走が食べきれなくなって後悔していた。

部屋の隅のテーブルに筆と硯の書き物の用意がしてあった。

中国人は酒を飲み、美味を味わって、興いたれば筆をとる、ということだった。

うちのボーイだって将来出世すれば、

ここにきて漢詩を書いているかもしれないと思った。

イメージ 1

↑現在の黄台支路1号あたり、2007年暮れ。




父は年に何回か日本に出張していた。

その度にお土産にねだっていた空気銃を、三度目位の出張で買ってきてくれた。

私は小学三年になっていたと思う。

兄と一緒に「絶対に銃口を人に向けてはいけない」と厳重に言われて、手渡された。

家の庭で狙うのはスズメが多かった。しかし敏感で逃げ足が速い。

最初の獲物はスズメよりも小さなメジロだった。

真上の桜の木の枝に三羽並んでとまっていたのを撃つと、一羽が無言で落ちてきた。

二羽は何事もなかったように残っている。

友達がいなくなったのに不人情な気がした。落としたメジロが可哀相になった。

家族に自慢したいところだが、見せるのは気がひけて、

庭の奥の茂みの見えないところに捨てた。


ある日曜日、父が鳥撃ちに行こうと言う。

兄は遊びに行っていたので私と二人で出かけた。

青島神社の裏手には小山があって麓に雑木林が広がっている。

「今は山鳩がいるかもしれない」と父。10月頃の落ち葉の時季だった。

林に入って落ち葉を踏みながら父が教えてくれる。

「ウズラはね、こんな低い木の茂みにいて、急に足許から飛び立つんだ」。

しばらく歩いていると、突然ばたばたと羽音を立てて、

地面をはうように鳥が逃げていった。

スズメと同じような色で体は三倍位大きかった。

「ウズラだ」と父が言った。銃を構える暇はなかった。

「野ウサギが木の根元にいることもある。

ウサギは逃げる時、必ず高い方向に走るからね。

しかし地面にいるのを狙うのは難しい。

銃では自分の目よりも低いものは当てにくいんだ」。

父からこんなことを教えてもらうのは初めてで嬉しかった。

山鳩も遠くで見かけるだけで狙えなかったが、気持ちはわくわくしていた。

やがて林を出て中国人の村落に入った。

並んで歩いていると道端に落花生の殻が落ちていた。

実が入っているか確かめてみたくて私が拾った。

「みっともない。そんなことするんじゃない」

突然、父が血相を変えて怒った。

「どうして?」私には怒られる理由が分からない。

ただ確かめてみたかっただけなのだ。

「だめだ。絶対にだめだ」と父は怒り続ける。

今までの楽しかった空気が一瞬で消し飛んだ。

私はもう、ずっと口をきかなかった。

“確かめたいから拾っただけじゃないか。

ほこりまみれの落花生なんか誰が食べるもんか。好奇心が何で悪い。

大人の汚い気持ちで想像するからだ。卑しいのはそっちだ”。

家に帰ってからも口をきかなかった。

子供部屋で一人、ノートに「お父さんのバカ」と書いていた。

後で分かったことだが、

父は「李下の冠、瓜田の履」の教えが真っ先に頭に浮かんだのだろう。

中国の古書『文選』にある、

「スモモの木の下で冠をかぶり直してはいけない。

瓜の畑で靴を穿き直してはいけない。作物を盗ったと疑われる」

という教えである。

父は「人に疑われるようなことをしてはいけない」という教えを、

子供の私に説明しても分からないと思ったに違いない。

「絶対にしてはいけないこと」として、頭ごなしに厳しく叱ったのだ。

イメージ 2

  ↑旧青島神社(現・貯水山公園)の裏山




本当のことを言うと、私は「李下の冠」どころではないいたずらをしていた。

家の両隣は中国人の金持ちの屋敷である。

片方の家の庭には我が家にはない桃の木があった。

実が熟して赤みを帯びてくると欲しくてしょうがなかった。

果物のなる木を見たのは生まれて初めてだった。

ある日、庭に誰もいないのを見定めて、塀を乗り越えて木に近づいた。

背伸びして赤い実を二つ取ってふと前を見ると、

いつの間に出て来たのか、お婆さんがこちらを見て笑っている。

胸がどきどきして冷や汗が出たが、

お婆さんは手を振って、もっと持って行きなさいという身振りだった。

私は恥ずかしくなり、取った桃を地面に置いて、もと来た塀を乗り越えて逃げ帰った。

それでもこりなかった。

次ぎは向かいの中国人の家だった。

ここは道路から塀越しに桃の熟してきたのが見えて誘惑された。

今度は兄と二人で攻略しようとした。

塀の内側の桃の木のある場所は、家が迫っていて狭く、滅多に人はいない。

外の道に通行人もいないときがチャンスだ。

塀を乗り越えて木の下に降り立った。その途端、男の怒鳴り声が聞こえた。

近所の悪童が私たちだけではないので、家の人が見張っていたらしい。

驚いて逃げた。逃げて我が家に駆け込んだ。すると今度は追いかけてきた。

家の若主人か使用人だろう。20歳前後の強そうな男だった。

玄関の呼鈴を押し、すぐは出なかったので外から怒鳴っている。

二人で意を決して玄関の鍵を開けた。

男は私たちを睨みながら「リーベンレン」(日本人)とか、

「ツアイ プーツアイ」(いるのか、いないのか)とか言っている。

私に分かる中国語はそれくらいだった。

家には私達の他に誰もいなかったので助かった。

男は言うだけ言うと帰って二度と来なかったので、両親にはばれずに済んだ。

桃泥棒はそれで諦めた。

学校に行ってその話をし、どんな味がするか知りたかったと残念がると、

友達は「ここら辺の庭にあるのは野生の桃だからちっとも甘くない。食べられないよ」

と馬鹿にされた。経験者だったのかも知れない。

そういえば手に触った感触は、熟れた色をした実でも硬くて小さかった。

イメージ 3

  ↑黄台路に残る立派な屋敷の庭



別の隣の中国人屋敷には年頃の少年がいた。

当時はビー玉が流行っていて私は一度、中国人とお手合わせをしたかった。

中国人の子供たちが道端でやっているのを観て、上手いとは知っていたが、

二、三日我ながら調子のいい日が続いたので自信がついて、隣の坊やを呼んだ。

塀を乗り越えてきた坊やは私より自信満々だった。

我が家の庭でやったのに結果は散々で、

10分もしないうちに私が貯めていた30個位を取られてしまった。

彼は1メートル位の距離からだったら、確実に当てた。

私が当てられるのは半々ぐらいの確立だったから、やればやるほど負けてしまう。

早々にお引取りを願った。

イメージ 4

  ↑旧青島神社参道(鳥の鳴き合わせをしているお年寄り);99年12月



この頃私が覚えたのは、買い食いとビー玉の他にもう一つあった。手鼻かみである。

街を歩いていると、よくチーンとかズンとかいう奇妙な音が聞こえる。

たいてい二度続く。

発生源を見ると中国人が人差し指で片方の鼻の穴を押さえて、

もう一つの穴から急激に息を噴き出す。それで鼻汁が塊となって飛び出すのだ。

片方が済むともう一方。

老若男女を問わず、相当な身分と思われる人でも所構わず道路や公園でやっている。

痰を吐くのと同じような感じである。鼻紙はいらない。

面白そうだから当然、私たちも真似てみる。

親に見つかると怒られるし、人には見られたくないので

誰も見ていない自宅の庭等で隠れて練習した。

だんだん上手くなって、

指や鼻の下を全く汚さないで狙った箇所に命中させられるようになった。


青島での中国人との付き合いはかなり友好的で平等だったと思う。

私達子供は中国人のしている遊びを真似た。

こちらが悪いことをすれば怒鳴りこむ中国人の大人がいたし、

子供も平気で我が家の庭に塀を乗り越えて遊びに来た。

昭和19年に金口一路の家に引っ越した時は、

その日の夜、向かいの中国人の家から食事の差し入れがあった。

その頃はもうサイパン島が陥落して本土空襲が頻繁になり、

近いうちに日本が負けることはたいていの中国人が知っていたと思う。

日本人と親しくなっても、もう得はなかった頃だ。

鶏を丸のまま煮込んだ熱くて美味しいスープには隣人の好意が感じられ、

子供達は大喜びだった。

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