青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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光畑京子の「終戦日記」(十四)


<海軍基地で地雷作り>



光畑さんの「終戦日記」は、

昭和20年(1945年)

6月19日から8月24日まで、空白になっています。

そのことについて、

光畑さんからお便りをいただきましたのでご紹介します。



【お便り】

日記を綴り始めたのは、

学校の連絡便にて記帳するように言われ

書き始めたように記憶しております。


一年生の二学期頃から週に何時間か

軍服作業(釦付け、穴かがり)を学校で始めました。


二年生の一学期半ば頃だったと思いますが、

特別女子挺身隊に指名され(学年で数人)、

青島海軍根拠地で働きました。


軍港の中にあり、どのような作業をしても、

家族は勿論、外部に伝えることのないよう口止めされました。

今でも憶い出すとぞっとすることは、

薄暗い建物の中で

地雷の火薬詰め作業です。

兵隊さんから

落とすと爆発すると聞かされたからです。

イメージ 1

↑旧海軍基地跡(現海軍博物館)




8月15日の当日は、

朝から兵隊さん達の何となく落ち着かない動きに、

私なり

今日は何かが起こるという気配は感じられました。

そして正午近くに海兵隊の方から

作業を止めて外に出るようにと言われ、

海辺の草地に正座させられました。

これから玉音放送が始まるので

心を静めて拝聴するようにと言われました。

しかし、私の能力では天皇陛下の御言葉の内容は

全く理解出来ませんでした。

でも放送が終了した途端、

兵隊さん達全員が号泣し始め、

私達は理解できずに戸惑うばかりでした。


しばらくして兵士の一人が

今日で太平洋戦争は終った――。

日本が負けたと聞かされ、作業を止めて帰途に着きました。

イメージ 2

↑旧海軍基地跡(現海軍博物館)




8月16日から三週間位は休校。

自宅にて自習、

日記をつけていたように記憶しています。

しかし、大通りに掲げてあった蒋介石の肖像画は毛沢東に変っていました。

外出も禁止、泰山路の道路を重慶兵(毛沢東軍の誤りか?)が行進し、

蒋介石兵との戦闘もありました。

数日間の出来事でしたが――。


近隣の日本人は幸いにも無事でした。

我が家の左隣と向かい側にも数世帯の日本人家族が住んでいました。

お付き合いはありましたが名前は憶えておりません。

右隣は中国人でした。

第一婦人の長男は京都の日本人小学校卒業、

終戦の年は青島日本医専の在学生、

藩明石さん(1984年に訪青した折は転居しており

再会は出来ませんでした)。

イメージ 3

↑光畑京子(旧姓小寺)さんの旧宅。84年8月撮影。泰山路40号

イメージ 4

↑同上、中庭にて。




青島市内の状況が少し落ち着き、

週何回かの割り合いで登校したように憶えております。


そして軍事基地から食料品(砂糖、米など)が学校に届けられ、

生徒に配給されました。

かなりの量を数回、家に持ちかえったような気がします。


10月8日に学校明け渡しが決まり、

12月31日の引き揚げの日までの出来事は、

また追って書いてみます。



以上です。

次回より「終戦日記」(8月25日から)を再開します。

ご期待ください。

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