|
光畑京子の「終戦日記」(十) <陸軍病院へ慰問> 昭和20年(1945年) 【5月21日 月曜日】 どうしてこんないやな気分を与えるのだろうと 私は人の話しているのに耳を傾けてはっとすることがある。 それは「ひいき」という言葉である。 ○○さんは○○先生に「ひいき」されているとか、 色々さまざまなことを言っている。 第一に私は何だか「ひいき」という言葉が気にくわない。 人のことでも口惜しくなって「ひいき」なんて、 こんな変な言葉はなくてもいいような気がする時がある。 【5月22日 火曜日】 昭和14年の今日は畏くも天皇陛下におかせられましては、 私達青少年にありがたい勅語をお下しになされたのです。 この良き日に当たりまして、学校では今日奉読式が行われ、 式の後に行軍を行いました。 私達2年生は陸軍病院に行って慰問を行いました。 病室に中尾さん、森沢さん、鈴木さん、吉田さん、高橋さん等と 20人位で行きました。 思ったより兵隊さんがお元気なので安心しました。 慰問の最中に隊長らしいお方がお見えになって、 怪我をしている兵隊さんの所にいらっしゃって、 ご自分で包帯を取ってみてあげていらっしゃる様子を見た時、 私はあんなこわい分隊長がやさしく部下をかわいがっている様子は 神のように尊く思われました。 そして鈴木さんが児島たかのり(高徳)を歌った時に、 兵隊さんはみんな下を向いて黙って聞いていらっしゃる。 短い御慰問でしたけれど、 お別れする時はとても名残りが惜しかった。 帰りに雨にあってぬれる。 でも兵隊さんのことを思えばなんでもありませんでした。 ↑陸軍病院を慰問する幼稚園生。写真は大阪の伊藤さん提供。 ↑旧陸軍病院跡地には現在立派な病院が建っている。 【5月23日 水曜日】 夕方、浩子を連れて山本さんの家にお使いに行く。 夜、山田さんのおばさんと喬ちゃんがあそびにいらっしゃる。 【5月24日 木曜日】 7時の報道、はっと思って、ラジオのスイッチをひねる。 大東亜戦争が益々熾烈の度を加えてくる。 いつもめざましい戦果が赫々とあがっていますが、 最後には必ず戦果の大半は特攻隊なりと言われている。 本当に敵艦にぶつかって行くのには 神様でなくては出来ないことだと思った。 私達は特攻隊にはなれませんが、 この精神だけでも受けついで、軍服を行って行こう。 【5月25日 金曜日】 今日は午後4時より横山文雄先生の民団葬が行われる。 今より2年程前に未だよくわからない音楽をお教えくださった。 私達の恩師が無言の凱旋をなされたのです。 叱られた事、誉められた事、色々な事が思い出されます。 本当に優しい先生でした。 【5月26日 土曜日 晴れ】 午後から山田さんの家にミシンをかけに行って、 制服に飾りミシンかけてたりする。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




