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青島の蜃気楼と徐福伝説 青島で見た蜃気楼について、 青島日本中学25期同窓会誌「魚山」から転載させていただきます。 蜃気楼の話から徐福伝説に発展していく楽しいお話で、 科学的、歴史的見地から見ても価値ある読み物だと思います。 どうぞご覧下さい。 ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ 昭和19年初夏、 たまたま太平路の海岸通りを散策中の私は、 青島ではそれ迄、夢想だにされていなかったある出来事に遭遇したのです。 その日は勿論のこと、翌日になっても興奮は収まらず、 登校するや否や、級友諸君にその一部始終を報告したのですが、 誰も頭からまったく信用してくれず、 「内藤は朝から何をネボケてるんだ」と言うのはまだマシな方で、 揚げ句の果ては精神異常か狂人?扱い、まったく無念極まる一日でした。 もう誰に話してもムダだと悟り、以来56年間、 魚山会でもこの件に関しては完全沈黙を続けてきましたが、 この間、唯一の例外は我が愛妻のみ、 20年前、ユートピア号による一青島訪問旅行に妻を同伴しましたが、 事件発生現場である太平路で緯々状況を説明し、 やっとニ人目の理解者になってくれました。 一人目は私のオヤジで、事件当日にすぐに信用してくれたものです。 ■ ■ ■ ■ ■ ↑蜃気楼が見えた桟橋付近の海岸。 昭和19年7月のある日、 青島を代表する名所、加藤島と海軍桟橋の回欄間の間の水平線上に、 私は信じられないほど壮大な“蜃気楼”を目の当たりにしたのです。 当時、私は青中5年生、 1学期の期末試験前の日曜日と記憶しておりますが、 珍しく朝から机に向かって勉学に励んでおりました。 昼食後、息抜きを兼ねて、習慣となっていた太平路の散策に出掛けました。 当時わが家は湖南路にあり、井原広子さんの家の真ん前でしたが、 家を出て緩やかな坂道を西に少し下がり、 最初の交差点を左折して《スター》と呼ばれていた洋画専門館の前を通り、 角に電報局があった広西路を横断して南に歩くと、 海岸通りの大平路はすぐでした。 打ち寄せる波が見え出したその時、 海岸通りを散策していた多くの中国人が、 突然、加藤島の方向を指差し、大声をあげて騒き始めたのです。 何事かと思い、皆の指差す方角に目をやった瞬間、 「アッ!」と息を呑みました。 一瞬あれは何だ?と思いましたが、そこは沈着冷静な内藤少年、 すぐに「これは蜃気楼だ!」と直感したのです。 それはどこかの町の海岸通りの風景で、 まさに総天然色映画のワン・シ一ン、 それもかなりワイドな画面で展開されていたのてす。 丁度、大平路の海岸通りを海側から眺めたような光景で、 砂浜を前にして石垣状の岸壁が横に連なり、 その上に道路が横一線に走っており、 その道路には一定の間隔をおいて、 郷子か棕櫚の木のような高木の街路樹が生い茂っておりました。 道路の背後には長い壁に囲まれた白壁の二階建ての建物が数棟建ち並び、 どこか南国の町を思わす風景でした。 さらに驚いたのはその時です。 周囲の中国人が、「汽車! 汽車!」と叫ぴ出したのです。 蜃気楼に見える道路上を左から右に走って行く黒い物体があり、 よく見ると何と自動車(汽車)なのです。 道路を走行する自動車が識別できるほど鮮明な蜃気楼だったのです。 やがて蜃気楼は風に吹き消されるように静かに影を消しましたが、 しかしそこに集まっていた人々が再び静寂を取り戻すのには 暫しの時間が必要でした。 時間にすれば僅か20秒前後のことだったと思いますが、 この蜃気楼の映像は今も私の脳裏に鮮明です。 この蜃気楼、級友諸君は誰も信じてくれませんでしたが、 ただ一人、技術屋だった私のオヤジだけは認めてくれ、 蜃気楼の原理を説明してくれるとともに、 蜃気楼の映像は上下方向の屈折はあっても左右方向の屈折はない筈だと言い、 一緒になって世界地図を眺め、 ほぼ真南の方向なので数百キロ離れた江蘇省の海岸部か、 もしくは遠く沖縄諸島の石垣島か宮古島辺りの風景では と言うのがそのときの結論でした。 なお、この蜃気楼の確かな証拠を級友に示したいと思い、 翌日から数日間、 青島興亜新報の紙面を隅から隅まで丹念に目を通しましたが、 残念ながらこの蜃気楼に関する記事は皆無でした。 ↑桟橋付近地図。矢印の方向に蜃気楼が見えたと思われる。 ■ ■ ■ ■ ■ 今更、また何を思って半世紀前の蜃気楼の話をする気になったんだ? と不審に思われるかも知れませんが、 実はその動機はあの「万里の長城」を築き、 中国を統一したと言われる“秦の始皇帝”と深い関わりがあるのです。 「何!秦の始皇帝だと?ウッソ―・・・」 とはもう言わないで下さい。 約15年前、青島旧市街の北側の小港の西側に 《青島輪渡站》と呼ばれるフェリー専用埠頭が設置されました。 早朝から30分間隔でフエリーが発着し、 海上約8キロ、所要時間20分で、膠州湾口対岸の膠南市輪渡站に着岸します。 一寸余談となりますが、 このフェリー船、船内の随所に日本語による案内板などが見られ、 さらに驚くことに船尾のペンキの剥げた部分に、 小豆島の文字がうっすらと見られます。 かつて瀬戸内海の小豆島フェリーで活躍した船が、 文字通りここで第二の人生航路を送っているのです。 ↑現在は黄島(開発区)行きと薛家島行きの2方面にフェリーが出ている。 (現在は少し大型になったが船内には日本語の注意書きが残っている) さて、この膠南市は行政的には青島市の管轄下にあり、 町の東沿岸部一帯は“青島経済技術開発区”と呼ばれ、 日本・韓国など外資による先端技術企業の工場が建ち並んでおります。 この膠南の埠頭からタクシーで約1時間、 海岸沿いに南下すると「瑯琊(らんや)]と言う町に到着し、 この町から少し離れた海岸部に 「瑯琊台」と呼ばれる標高180mの高台があります。 この「瑯琊台」は今から約二千二百年前、 泰山で「封禅」の儀式を終えた秦の始皇帝が、 初の東方巡幸の旅に出て山東半島を一巡した後この地に滞在、 そこに徐福と名乗る男が現れ、 「遥か東方の海中に三神山があり、 その名を蓬莱、万丈、瀛州(えいしゅう)と言い、 その地に不老長寿の煎薬を持つ仙人が住んでいると言うことです。 我々は斎戒して身を清め、 無垢な童男、童女とともにこれを探し求めたいと存じますが いかがなものでしょうか」 と奏上し、その願いを了承した始皇帝の命を受け、 三千人の童男、童女、五穀および百工(各種技能者)を率いた徐福が、 東方の三神山に向けて出航したと言う、あの「徐福伝説」ゆかりの地なのです。 (徐福伝説はさらにクライマックスへとつづきます)
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2008年09月13日
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