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霧の中から(第二話) <この記事は、 青島日本中学校25期生同窓会誌「魚山」第18号(平成10年1月発行) より転載させていただきました。> ↑青島中学(現海洋大学)1940年頃。 ◆霧の中から(第二話) 「青春の雄叫び」 井上 睦 皇紀二千六百年。昭和15年(1940年)4月 私は青島第二日本尋常小学校から青島日本中学校に入学した。 春爛漫の頃、憧れの青中生になり、白線の制帽を被り、 長ズボンをはき白いカバンを左肩から斜めに掛け(下校時は右肩から)、 颯爽と校門に立ち、校舎の中央に堂々と聳える三角屋根と、 そこにへんぽんと翻る日の丸の旗を見上げた瞬間、 これから始まる学生生活の希望と、未知の世界への探求の喜びが、 どっと溢れて来た。 これこそ“青春の門”の夜明けだった。 だが、中学に進学できた嬉しさに浸り、安堵でホットするのは束の間で、 そんな安易な気分は第一公園の桜とともに散ってしまった。 ■ ■ 伝統の青中の応後歌の猛練習が始まったのだ。 例年アカシヤの花咲く5月、 競馬場近くの匯泉体育場で開催される、 青島新報社主催の市民大運動会で熱唱する応後歌を 全校生徒が練習するのである。 なお、この大運動会は長らく在留邦人のみの参加で、 第一小学校グランドで開催されていたものだが、 15年頃から青中華語教師たった李仲剛先生設立の 東文書院(中学)も全校生が参加するなど 日中合同の色彩が濃くなり、会場も匯泉体育場に移された。 ↑青島中学応援歌練習風景(昭和18年) 我々新人の1年生にとっては、校舎と寄宿舎に囲まれた朝礼集会場と、 一周二百メートルの下の運動場を連絡する御影石の階段は、 恐怖の地獄の味わいのする場所で、 まるで四谷怪談に遭遇したようなゾーッとする階段であった。 ↑現在の階段(2006年撮影)。 あの頃は、1年でも上の上級生は下級生にとって全く恐ろしい存在で、 つい挙手の礼を失してしまったら、ドヤされるはビンタは食らうわで、 通学時は絶えずキョロキョロして、周囲の警戒に努め、 遠くに青中生の姿を見つけると、肩を強ばらせて挙手の礼をしていたものだ。 世の中が世知辛くなり、綿製品の欠乏で スフ混じりの青っぽい生地の制服を着る下級生が多くなり出した頃だった。 私が兄の色あせた“お古”を着せられた時には、 余計に神経を使ったものだ。 よく上級生の方が先に敬礼するので、 私は慌てて敬礼して向こうが手を降ろすまでしていると、 すれ違い時に私の襟章を見て 「なんだ1年生か・・・」 と睨まれるのには閉口した。 このように厳しい上下の区別の存在の時代だったから、 最上級の5年生は我々1年生にとっては遠い存在の人物のように見えたもので、 とくに白線のよじれた破れ帽子のツバを折って、それを斜めに被り、 肩カバンをダラリと腿のあたりまて下げている オッサンみたいな5年生は要注意で、警戒を怠らないでいた。 ↑青島中学登校風景(昭和15年)。 ■ ■ 例の階段には、下から1年生、2年生・・・4年生と 約八百人ほどが整然と座り、 その回りを5年生がぐるりと取り巻いているのである。 そして、 「声が小さいぞ―!」 「元気出せ!」 「やり直し!」 「そ−れ!・・・」 と色々注文をつけるのである。 「旭原頭」「忠の海辺」など応援歌、行進歌が併せて約10曲、 これの歌詞の暗記に加えて三、三、七拍子の拍手の練習などで 徹底的にシゴかれたものだ。 歌の練習の時は、例え歌詞の暗記をサボッテ忘れていても、 口をパクパク動かして胡麻化すことができたものだが、 拍手の練習には緊張した。 始めと終わりはキチッと合わなければならない。 シーンとした時、 皆より早く、または遅くパチッと間の抜けた音を出そうものなら大変である。 周りの5年生からたちまち怒声が飛び交い、 「今のは誰だ! そこらに居るぞ! 立て!」 と来る。首を縮めて黙っていると、 「そこら辺の5、6人の中だ。全員立て!」 と共同責任となり、迷惑至極と後で仲間から責め立てられるので 正直に立たざるを得ない。 そして疑段から下ろされて全員の前のグランドに立たされ、 そのまま猛練習を続けされるハメとなり、叶わなかった。 昔は応援団長がよく殴ったそうだが、監督の先生に注意され、 それでは蹴るのはよいだろう・・・それも当然注意されて中止。 しかし、睨まれた者は後ほど武道場の裏でやられたと聞く。 兎も角我が青中健児は、応援団長の振る旗の合図で、 一致団結して行動するまで徹底的に鍛練させられたのである。 ↑青島中学運動場全景。 ■ ■ 1ケ月近くの猛練習の成果は、市民運動会の晴れ舞台に見事に反映され、 応後歌に励まされた青中選手は各種目で好成績を収めた。 中でも大会の華は、 最終の四百メートルのトラック4周で争われる千六百メートルリレーだった。 宿敵の学院を始め、 選ばれた中国の学校の選手相手に抜きつ抜かれつの大接戦に、 全校生徒は無我夢中で声を張り上げ、 突撃ラッバにつられて「ウオー!」とまるで獣のように吠え立てたものだ。 ↑青島中学運動会風景。(旧市民体育場(現天泰体育場)で昭和18年)。 ↑青島中学運動会応援風景。同上 毎年、応援歌の練習シーズンになると、 「今に見ていろ、5年のおいらの天下になると、 後輩を思いきりシゴイでやるぞ!」 と、切歯扼腕したものだが、大東亜戦争の戦局は風雲急を告げ、 恒例の市民運動会も非常時を理由に昭和18年には中止となった。 さらに1年、2年と積み立てながら楽しみにしていた修学旅行も 取り止めとなり、世の中は段々世知辛くなり、 「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは]と、 念仏のように唱えるご時世となり、我が青春も暗黒の時代に入った。 旅行の積立金も確か“国防献金”に変わり、 軍用機の晴れの献納式には青中生も参列、 その時、青く澄み切った大空の一点が、 見る見る内に爆音とともに頭上を過ぎ去って大きな機影となり、 我々を驚かせた。初めて見た零戦だった。 アッと言う間に飛行雲の尾を彗星のように輪を描きながら舞い上がり、 宙を打って急降下、自由自在に飛ぶ勇姿に唯々我々は感激、 憧れは膨らんだ。 我が青春は大空に燃えた! (この項終わり。終曲「ロスよ、さらば」につづきます) 注:青島中学応援歌の一節 旭原頭 一、旭原頭東風吹きて 咲くや万朶の山桜 花の吹雪は降りそそぐ 健児飛躍の晴れ舞台
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