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“終戦秘話” 私の八月十五日 ―終戦前後10日間の回想― (二) 内藤道久 <この記事は、青島日本中学第25期生同窓会誌「魚山」第34号から 転載させていただきました。 筆者はこのブログではお馴染みの内藤道久さんです。 ハワイのホテルで聞いたアメリカ陸軍の起床ラッパから、 終戦前後の思い出を語ります。 どうぞご愛読ください。> ↑鉄道図:北京駅、広安門駅、豊台駅の位置関係を示す。 1945年当時の北京駅は前門にあり、 駅前は路面電車のロータリーになっていた。 ◆ 物資の疎開作戦開始 昭和20年8月に入ると貨物廠上空にも しばしばアメリカ軍偵察機が飛来するようになり、 近い内に大空襲は必至・・・と噂され始めました。 8月8日頃、突然、我々報国隊員の一部に転属命令が下り、 私は9名の級友とともに、 新たに設置される、《広安門分遣隊》に転属を命ぜられました。 沖縄戦が米軍圧勝の中に終結し、 沖縄を基地とする米空母艦載機の 九州・朝鮮・華北・満州への空襲の激化が予想され、 その対策として貨物廠の膨大な物資を 約十箇所に分散・疎開する作戦が決定されたようでした。 そして、その第一陣として北京城内三箇所への疎開作戦が始まったのです。 当時の北京は広大な城壁に囲まれ、 紫禁城を中心とする内城と、天壇などがある外城に二分されておりました。 この内城の南西の隅に二方が城壁に面した十数万坪の農地があり、 この一部が軍需物資疎開用地として、急遽、強制収用されたものです。 一面に玉蜀黍、野菜などが栽培されておりましたが、 今まで居住していた農民は強制退去となり、 その中には祖先伝来と思える墓地を掘り起こし、 埋葬して間もない真新しい棺桶を馬車に積んで運び出している一家があり、 亡夫の亡骸なのか泣き声をあげながらその後を追う、 纒足の老婆の姿が半世紀を経た今も脳裏に鮮明です。 ここには兵舎となる適当な建物がなく、 確か《九六式幕舎》と呼ばれた円形大型テント五棟を全員で建てました。 分遣隊長には若き主計見習士官が任命され、 分遣隊本部には主計下士官が数名、 他に警備担当の警備隊に下士官・兵が約15名、 作業担当の朝鮮半島出身兵士からなる作業隊に約10名、 それに中国人労務者の作業監督担当の我々報国隊員10名、 これがこの分遣隊の全メンバーでした。 この分遣隊の主なる業務は、 豊台の貨物廠から貨車便で送られて来る疎開物資を《広安門駅》で降ろし、 馬車に積み替えてこの分遣隊まで運び、 それを作物を伐採した農地に野積みし、 シートを掛けて保管するという単純なものでした。 しかし、その労働力、馬車などはすべて近郊農村から徴用で集められ、 これには日本憲兵が介在し、 既に日本の敗戦を予想してか、これら農民は極めて反抗・抗日的で、 その作業の監督は難渋を窮めました。 ↑写真:10年前の天安門。 1999年、天安門広場は建国50周年で賑わっていた。 ◆ 運命の8月15日 8月15日、この日は早朝から激しい豪雨となり、 幕舎の周囲の雨が内部に流れ込み始め、 寝具の毛布が濡れないように積み上げたり、 急遽シャベルで排水溝を掘るなどテンヤワンヤの大騒ぎとなりました。 作業開始時刻になっても中国人の労務者は全く姿を見せず、 今日は大雨なので彼等も休みかと、特に気にも止めませんでした。 午後になっても雨は降り止まず、 円形のテントの中に文字通り車座になって、 たわいない雑談に花を咲かせておりました。 午後3時半頃、 朝から広安門駅に連絡員として出向いていた2入の級友が、 テントの入り口に倒れ込むように駆け戻って来ました。 「おい! 日本が負けたぞ、米英に無条件降伏した。 天皇陛下の放送があった・・・」 これが第一声でした。 全員しばし声もなく、 一方ついに来るべきものが来たかとの思いも脳裏を駆け巡りました。 やがて雨も上がって全員集合が命ぜられ、 分遣隊長の高谷見習士官からこの日の正午にあった 天皇陛下の玉音放送の内容が告げられ、 ボッダム宣言受諾と日本の無条件降伏を知らされました。 その後、これから先我々は一体どうなるのだ? との不安で一杯となり、深夜遅くまで語り合ったことでした。 一晩中鳴り響く銃声に似た爆音に脅かされましたが、 それは中国民衆が夜を徹して勝利を祝う爆竹の音でした。 翌16日、日本敗北を知った中国人労務者は当然一人として現れず、 すべての作業は中止となりました。 昼前、突然テントの外で銃声が鳴り響き、何事かと思って飛び出すと、 早速この分遣隊の貯蔵物資を狙って民衆の一団が乱入、 これに対し警備隊の一兵士が独断で三八式小銃を発砲したもので、 民衆は一目散に退散しておりました。 この小銃乱射の兵士はヤクザの出身とかで、 屋外のドラム缶の風呂に入浴中を見ると背中一面に入れ墨を消した跡があり、 部隊一番の古参兵(7年兵とか)ながら未だ上等兵。 しかし、自分より徴兵年次の若い下士官連中をアゴで使っており、 部隊切ってのナラズ者というのが定評でした。 その日の夕方のことでした。突然、テントの外から、 「おい、学生達よ。一寸入り口を開けろ」 とドスの効いた声。 紛れも無くヤクザ上等兵の声で、 出て見ると後ろに大八車を引いた兵士二人を従えていました。 「これ少ないけど、皆んなで呑めや。 クヨクヨせんとパッと元気出せや! いいな」 何と、各種の中国酒とビールなど10数本と落花生に焼売などで、 他のテントにも同じように配られておりました。 目撃者の談によればこの上等兵、 貯蔵物資の中から中国人にも使えそうな毛布・防寒服などの梱包を 独断で開けさせ、それらの物品を大八車に満載にし、 武装兵士数名を従えて近くの商店街に出掛け、 物々交換でこれらの酒肴品を大量に入手して来たとのこと。 さすがに若き隊長もこの行為には目をつぶっていたとのことでした。 このヤクザ上等兵の独断専行のお陰で、 この夜は各テント毎に大酒宴となり喚声が響き渡って来ました。 我々にとっては動員後初のアルコール、 飯盒の蓋や中蓋で酒を酌み交わすと言う、まさに露営の宴でしたが、 ものの1時間で全員すっかりデキ上がり、 後は裸足のまま広場に出て円陣を組んでの放歌高吟、乱舞となりました。 校歌、寮歌に次いでノーエ節、デカンショ節、炭鉱節などと続き、 日本男子の蛮声が月夜の北京城壁に大きくこだましました。 その時です。 いつしか遠くから黙って眺めていた隊長の高谷見習士官が近づき、 「自分にも一曲歌わせてくれ・・・」 と、輪に入って来たのです。 何を歌うのだろう? と、全員注目の中、 朗々と響き渡って来たのは、 「嗚呼、玉杯に花受けて 緑酒に月の 影宿し 治安の夢に耽りたる・・・」 何と天下の第一高等学校寮歌。 この時初めてこの隊長の一高・東大理学部数学科出身を 一下士官から聞かされました。 やがて、全員が一等兵に昇進して間もない、 朝鮮半島出身の作業隊の面々も姿を見せ、 アリランの合唱と輪舞が始まりましたが、 若き隊長はこれを黙認。 母国語の使用を堅く禁じられていた彼等の胸中には、 「祖国解放・朝鮮独立万歳」の思いが満ち溢れていたと思いますが、 さすがにそれを口にする者は一人もいませんでした。 この日の夜、我々のテントに一人の朝鮮出身兵が来訪、 「我々は今まで日本皇民の一員として米英撃滅を誓い合って頑張って来たが、 米英に無条件降伏とは誠に残念である」 と、やや泥酔気味でしたが激しく悲憤慷慨し、号泣するのには驚きました。 翌17日も当然一切の作業は中止され、 終日テントの中での、将来の不安感を主とした暗い会話に終始しました。 夜の12時頃、突如「非常呼集」の声に叩き起こされましたが、 これは何者かが分遣隊の構内に爆竹を投げ込み、 これを警備の兵士が敵襲と報告して非常呼集となったもので、 この警報が解除されたのは午前3時でした。 ○学徒らのデカンショ節にまじり来し 若き士官の一高寮歌麗し ○積年の差別の憤懣晴らすごと アリラン乱舞す朝鮮出身の兵 (つづく)
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2009年11月10日
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