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奇跡の邂逅と巡り合い 金井(石川)清 <この記事は、青島同窓会デラシネ会発行の文集「青島慕情」から 転載させていただきました。 日本人と中国人との心温まる友情のシーンは涙があふれます。 どうぞハンカチをご用意の上お読みください。> ↑無棣路近辺の地図。 終戦時、私は三年生。 引き揚げ以来六十一年間、 私の周りで青島を知る者は兄二人を残し、みんな世を去り、 私の中の青島はどんどん遠ざかって行くばかり。 そんな時「青島ゆかりの方々へ」との豊島様からの便りに私は驚喜しました。 六月の神戸の同窓会では私には同期生が一人もいないながら 喜んで妻同伴で出席しました。 六十余年前の一時期、同じ校舎、同じグラウンドですごした皆さんとの出会いは、 薄れかかった青島恋しやの記憶を一気に現実に引き戻してくれました。 今でも入学記念写真の中の顔と名前が一致する六人の級友や、 名前は忘れたけれど、 同期に当時有名な加藤隼戦闘隊の加藤隊長の甥がいて、 隊長が戦死された時、 彼の家では大きな遺影にたくさんの花が供えられていたことや、 青島神社の前側の播磨屋の焼きそばとブタ饅頭(包子=パオズ)が 旨かったことなど奇妙によく覚えています。 ブタ饅頭で忘れられないことがあります。 引き揚げ当日、 埠頭行きのアメリカ軍のトラックを寒空の下で長時間待たされていた私達に、 父の下で働いていた中国人が、 大皿に山盛りの温かいブタ饅頭を差し入れてくれた時の あのおいしさは特別だった。 平成二年、私の兄(石川博)が青島を訪れた時、 このブタ饅頭が思いがけない出会いに絡んでいるので、 私のことは次の機会に譲り 兄の奇跡のような巡り合いについてお伝えしたいと思います。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 兄(石川博)の青島の旅(文中の「私」は兄を指します) 私は平成二年八月、客船ユートピア号で生まれ故郷の青島を訪れました。 青島での私の一家は無隷路六号に住んでおり、 同五号には松村医院がありそこの息子さんの正寛君とは小中学校の同期でした。 ところが船中でそのお姉さんの康子さん一家が乗船していることが判り、 お互いにびっくり。 これが第一の巡り合いで この康子さんとの出会いが次の巡り合いにつながろうとは、 夢にも思いませんでした。 青島到着後、昔の自宅跡は無論、あちこち参観の時、 康子さんは [無隷路五号の松村医院でコックだった丁さんを知りませんか] と書いた紙片を手に、だれかれかまわず現地の人々に尋ねていましたが、 八月六日湛山寺参観の折り、 私が仏殿を参詣して出てきた途端、康子さんに大声で呼ばれました。 行ってみると四、五人の人に囲まれた康子さんが一人の老人を指差して 「この人が石川さんを知っているそうよ」というのです。 私はその老人の横顔を見てすぐ 終戦までわが家で働いていた鄭(チョン)さんであると判りました。 思わず「鄭」と肩をたたくとその老人は一瞬、 呆気にとられた顔で私を見つめました。 四十五年前の中学生だった私と目の前にいる私の顔が 結び付かなかったのでしょう。 私が団体の名札を示し、石川家の長男であることを告げると大きく頷き、 日本語で「ニイチャン、ヒロチャン」と叫び私をしっかり抱きしめた。 父母の写真を見せると「ジャンクイ(且那さん)、オクサン」と言い 「ご両親はお元気か?」と尋ねるので 父母はすでに死去したと告げると写真を胸に抱き 「会いたかった」とぼろぼろ大粒の涙をこぼしたのでした。 その日は団体行動でしたが午後は自由でしたので、 「お宅に伺いたい」と言うと大いに喜び、 住所を開いてひとまずその場は別れました。 ↑無棣路と大連路の角付近。 昼食もそこそこに今度は通訳同行で鄭さん宅を訪ねると、 彼は路地の入り口で小さな椅子に座り私を待ちかねる様子でした。 「よく来てくれた」と抱えるように家(但しひと開きり)に案内された。 中で奥さんが西瓜を用意して待っていました。 鄭さんは八十三歳、奥さんは七十一歳、 ともに壮健で昔のことをよく覚えていました。 父母の写真を前にして 「あなたのご両親は心の優しい人で私達使用人をとてもよくしてくれた。 お母さんは赤ちゃんを背に使用人の先頭に立って働き、仕事を教えてくれた」 「あなたは六人兄弟で上三人が男の子で、下三人が女の子だったが、 末の子は終戦直前の八月九日に亡くなりましたね」とか 「あなたのお母さんがお嫁に来た時は私たち使用人も招かれました」 などなど四十五年の空白を埋める話は 流れる涙とともにいつまでも尽きませんでした。 △ △ △ 彼の部屋には中国人の老人が好きな雲雀の籠が二つあり、 天気の好い日には天秤で担いで広場の木の枝に吊るし、 鳴き声を楽しんでいるそうです。 そしてもう一つ! 部屋の片隅に見覚えのある物があったのです。 それは母が愛用していたミシン(シンガー製)です。 それは引き揚げ前に母が鄭さんに渡したもので 「これはあなたのお母さんから戴いた。今でも使っています」 と奥さんは言い、 私は黒くなった板を撫でているうちにまた目頭があつくなりました。 話は尽きないものの時間がなくなってしまい、私は 「まさか会えるとは思ってなかったから、 なにひとつ土産の用意がないので誠に失礼ながら」 と金一封を贈ったところ、 「こんなに沢山戴けない」と辞退するのですが 四十五年間の御無沙汰の埋め合わせにと納めてもらいました。 別れ際鄭さんは日本語で「サイナラ」 私は中国語で「再現(ツァイチェン)」と挨拶を交わして別れました。 ホテルに戻るなり私は直ぐ自宅に電話を掛け、 妻から弟妹達にこのことを伝えて貰いました。 あのマンモス都市で奇跡のような漫遊。松村さんとの奇遇。 持っていった写真の父母もきっと喜んでくれたことでしょう。 帰国の船中でも一番の話題となり、 船長さんから同行の皆さんに紹介されたほどでした。・・・ 以上が私(金井清)の兄が青島を訪れたときの模様ですが、 文中の鄭さんこそ私達が引き揚げるとき 温かいブタ饅頭を差し入れてくれたその人であり、 幼なかった私もよく覚えている光景でありブタ饅頭〔パオズ〕の味なのです。 この鄭さんの親身な行動は、日本敗戦のあの空気の中、 しかも多くの中国人環視の中でのことでしたので、 大変勇気の要ることだったであろうとの兄の言葉に私は頷くばかりであり、 今更ながら感謝しているのです。 ↑「日中友好の船」見送り風景。(88年5月。青島大港にて) なお、神戸の同窓会で初めて一人の同級生の消息を知り、 電話を掛けたのですが病気療養中とのことで、 ご家族から断られたのは実に残念でした。 とはいえ一人でも同級生の消息が分かったことは本当によかったと思っています。 同窓会を開いていただいたことを感謝しています。 有難うございました。 (新潟県見附市)
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2009年12月12日
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