|
井上睦三の「敗戦から引揚げまで」(一) 井上睦三 <この度、青島日本中学第25期生・井上睦三氏から原稿をいただきました。 青島医専に入学して間もなく終戦となり、 医学への道を諦めざるを得なかった氏の苦悩の青春時代を どうぞお読み取りください。> ↑金口一路の井上氏の旧宅。 先日の貴兄のメール「だらぽち記者奮闘記」(畠山茂男著)で、 64年前の私の忘れかけていた記憶が蘇って来ました。 8月15日は私は校則に従い青島医専の寮生活をしていました。 日本の降伏を知り皆愕然とし、 これから母国はどうなるんだと皆不安でしたが、 学校側は存続中は医学を続ける方針で、 青島中学卒約15名は自宅から通学しても良いとの事でした。 学校・寮も今の人民病院〔当時青島病院〕の近くにありました。 私も金口路の自宅から通いましたが9月中頃通学中 四・五人の中国学生から石を投げられ身の危険を感じました。 日本軍関係は郊外の箇所に撤退集結されたとのこと。 時時日本人宅の略奪の話も耳にするようになりました。 10月初めでしたか、 米軍機グラマン始め各種型何十機が爆音高らかに青島の空を舞い、 ドイツ要塞のあるカイセン岬沖には 空母が3隻交えた米艦隊が群がるを眺め、 私は日本は完全に負けたと痛感しました。 ↑井上氏旧宅の入り口。 私の父は貿易商で済南と開封で店を開き、 多少自己流の中国語を話して中国人相手に商売して、 三井物産と取引したり陸軍貨物廠に納入したりしていましたが、 44年末、病気で体力弱めてから殆ど青島の自宅に居るようになりました。 父は終戦後在留邦人居留民団から 日本帰国は、奥地から引き揚げて来る邦人の世話をしたアトの順番と聞いて 半年後か1年後かも知れないと、 暫くの食料や燃料の石炭等を地下室に買い溜めしていました。 45年の10月上旬でしたか、日本人回覧板が回ってきて 「此の頃治安が悪くなり日本人宅の略奪が起こっています。 日本の軍隊や警察は収容されていますので 若し略奪されそうになりましたら米軍巡邏警察MPに ヘルプ・ヘルプと大声で叫んで助けて貰いなさい。」 との回覧板でした。 戦時中、小学・中学生で育った頃学校で 「打倒鬼畜米・英」と嫌と言うほど頭に植え付けられた私には、 ホンマかいなと世の中180度転回には混乱してしまいました。 10月上旬の夕刻、 玄関のベルでつい無用心に開けると、 中国軍服姿の兵士が四・五人立っていました。 父が応対すると銃を持っているだろう調べると言って ヅカヅカと入って来ました。 父は私に近所の日本人に連絡しろと合図しましたので 外にソーっと出ると、門の処にも三・四人立っていて押し返されました。 兵士は机や箪笥の引き出しを開けて 時計や指輪など高価な物を取っていきます。 陽が暮れて薄暗くなりかけました。 丁度都合よく、悪く?停電になりました。 兵士達は明かり代わりに紙に火を点け、 私は燃えカスが火事になってはと消し回る次第です。 暗いものですから略奪は30分余で終わりました。 ↑金口一路から海岸へ向かう坂道。 翌日届け出ると領事館の人が3人ほど家に来て事情を聴取しました。 一人は中国服を着た情報員らしく色々と兵士の服装など聞いて、 「彼等は正規軍で無くて今まで日本軍に追われて 山中に篭もっていた兵士のようです。 日本軍も悪い事をしましたから彼等の報復です。」 と言っていました。 暗に日本が負けたのだから諦めなさいと言っているようです。 兎も角、被害届を出してください。 暴力を受けず怪我人が無くて良かったです。と言い残して帰りました。 領事館から、その後の経過報告も無く、国敗れて権力も失墜、 私達の生命・財産の保障は自分達で守るしかない運命と痛感しました。 市街では「100年の恨みが晴れた!」との横断幕が掲げられていました。 また朝鮮独立義勇軍の行進が見られました。 多分1894年の朝鮮出兵から日清戦争経て朝鮮併合、 さらに中国大陸の日本侵略に対しての勝利を主張して祝っているのでしょう。 戦争の勝敗に国民は悲喜交々体験しながら 夫々の人生行路を歩むようになるんですね。 10月末何応欽将軍が率いる中国正規軍も進駐して 要所要所を収め治安も良くなったようです。 青島医専始め各学校も接収されましたので授業も中止になり、 私は自宅待機していました。 (つづく)
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2009年12月15日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




